子供の頃、私の家では毎朝の食事に三切れの漬物が付いた。その理由を父はこう説明した。

「東京は武士の街やから三切れは『身を斬る』に通じるというて嫌う。相手を斬る『ひと切れ』が歓ばれる。けど、うちは商売屋やから『商いは見切りが大事』というて、昔から漬物は三切れ出すことになってる。毎朝、三切れの漬物を見て、『今日はどの商売を見切るのか』『どの商品を見切るのか』を考えんとあかんということや」

 こんな話が、本当に大阪の商家で一般的だったのか、わが家独特の習慣だったのかは分からない。だが、大阪人が進取の気性に富み、見切りの早いことは事実だ。

 明治維新の折にも、大名貸しを惜しんで徳川幕藩体制を擁護しようとはしなかった。木綿耕作や機織り業を守るために外国綿花の輸入制限運動を起こしたりもしなかった。さっさと木綿耕作や機織り業を諦めて近代機械紡績に転換したのである。

 この結果、明治維新から40年後には、大阪は近代紡績業の世界的中心地となり、大いに繁栄した。巨大紡績会社が育ち、五綿八社と呼ばれる貿易商社が密集した。1950年代には、貿易商談成立金額の全国の過半を大阪が占めていたのである。

 戦後も新しい業種業態の多くが大阪を中心とする関西から生まれ育った。その中にはウイスキーのチェーン・バー、スーパーマーケット、プレハブ住宅、アルバイトサロン、出来上がり総菜販売、消費者金融、数々の家庭電化商品などがある。大阪には、良くいえば進取の気性、悪くいえば軽佻浮薄の気性があるのだ。

 1975年以降、政府の東京一極集中政策を革新大阪府政の地方都市化傾向と見て、大阪の地に見切りを付けて本社機能を東京に移す会社が増えたのも、「見切りの早さ」の一つの現れかも知れない。大阪出身の評論家大宅壮一氏はそんな大阪人の気質と行動を「阪僑」と呼んでいる。

(週刊朝日2014年8月29日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載5に連動)