2010年9月15日、「大阪維新の会」のパーティーで橋下徹大阪府知事(当時)らと。「改革ならずんば」の思いは強い (c)朝日新聞社 @@写禁
2010年9月15日、「大阪維新の会」のパーティーで橋下徹大阪府知事(当時)らと。「改革ならずんば」の思いは強い (c)朝日新聞社 @@写禁

 世界の冷戦構造と日本のバブル景気が崩壊してから既に四半世紀。この間に、日本の経済成長力は大幅に低下、「世界最大の黒字」だった貿易収支も今や赤字になった。日本が世界経済(総生産)に占める比率は15%から8%に低下、もはや「経済大国」とはいえない有り様だ。その上、財政は猛烈な赤字、消費税の引き上げでも解決の目途は立たない。

 何よりの危機は人口の少子高齢化だ。「40年後には1900ほどある市町村区の約半分が人口不足で存立できなくなる」という予測さえ出現した。

 この現実を直視すれば、誰しも「戦後高度成長時代に築かれた現状の制度や仕組みを抜本的に改革しなければならない」と思うだろう。

 実際、90年代からの多くの内閣はそれぞれの立場からこの国の改革に取り組んで来た。だが、その多くは不発に終わり、小さな部分の調整に終始している。

 1993年に登場した細川内閣は、40年ぶりの非自民政権として改革意識に満ちていたが、結果としては選挙制度の改革以外にさしたる実績も残せなかった。

 96年に誕生した橋本龍太郎内閣は、霞が関の省庁再編にも取り組んだが、結局は省庁の名称と所掌範囲をずらしただけに終わった。

 次の小渕内閣は「国歌国旗法」や「労働者派遣法」の改正案を成立させたが、体制と制度の根元には手を入れられなかった。

 続く森内閣で「情報産業担当大臣」を兼務した私は、電気通信法を改正、わが国の情報環境を一新することに成功したが、社会の根源に立ち入ることはできなかった。

 2001年に発足した小泉内閣は、総理大臣自身が「自民党をぶっ壊す」と叫ぶほど改革意欲に燃えていたが、結果として成し遂げたのは「郵政民営化」ぐらいだ。

 09年、細川内閣以来20年ぶりに非自民内閣が誕生、「今度こそ大改革を」との期待も大きかった。しかし、民主党の三つの内閣はいずれも短命、さしたる実績も残せなかった。

 この20年余、岩盤規制の城壁に守られた「戦後体制」の巨城には歴代内閣の懸命な挑戦も本丸に迫ることさえなく、はね返されたのである。

 このようにいえば、戦後体制の「金城鉄壁」には、既得権の巨魁(きょかい)が鎮座し、守旧の名将が策を練っているように見えるだろう。

 しかし、実は違う。規制の岩盤も体制の金城も、それを構成し支え続けているのは無数の真面目で従順で凡庸な人々である。

 小渕恵三首相の施政方針演説の一節に「分け入っても分け入っても青い山」という種田山頭火の詩を引用された部分がある。規制と体制の城は、英雄名将の知恵と勇気で守られているのではない。分け入っても分け入っても限りない多数の「凡庸」によって構成されているのである。

「凡庸の壁」をいつどのようにして崩すか、この一点に日本の未来が懸かっている。

(週刊朝日2014年8月15日号「堺屋太一が見た戦後ニッポン70年」連載3に連動)