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第51回

文・白石一文

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実際は

 中曽根あけみに確認など入れていなかった。

 だが、「グランマイオ成城学園」に提出した関係書類にK書店の執筆部屋の住所を記載したのはたぶん事実だろう。正式な書類には住民登録済みのその住所をいつも使っていたからだ。

 そんなやりとりをしているところにようやく優香が戻って来た。

 改めて時計を見れば、きっちり三十分が経っている。

 それから二時間ばかり、優香を交えて愉快に飲んだ。

 彼女はびっくりするほど昔のことをよく記憶していて、二人で飲み明かしていた頃のさまざまなエピソードを面白おかしく披露してくれた。その巧みな話術に響子だけでなくこっちまでつい惹き込まれてしまう。

 かなりの誇張が含まれているとはいえ、当時、親子以上にも歳の離れた彼女に散々な迷惑をかけてしまったのは確かなようだ。

「一度なんて歌舞伎町の店を出たところで泥酔してた先生が狭い階段で足を踏み外しちゃって、前にいた私も体当たりを食らって、一緒に団子みたいになって下まで転げ落ちたこともあったのよ。あのときは、正直、死ぬかと思ったわよ」

「お二人とも怪我はなかったんですか」

「奇跡的に軽い打ち身程度で済んだのよね。でもあの階段落ちはマジでアクション映画並みだったと思うよ。先生、憶えてる?」

 言われてみると、そんなこともあったような気がした。

「だけど、優香さん、よくそんな酔っ払いの相手をずっとして平気でしたね」

 呆れたような口吻(こうふん)で響子が言うと、

「まあね。うちは母親も完璧なアル中だったから。先生はべろんべろんになっても手が出たりエロくなったりは絶対にしなかったしね。それに先生を仕事部屋まで送っていくと、必ずルミンが出迎えてくれてさ、先生を寝かしつけたあとでルミンと遊ぶのがあの頃の私にとっては唯一の慰めだったのよ」

 この話は初耳だった。

「そうだったのか」

 思わず聞き返すと、

「先生が大いびきをかいているあいだ、ルミンと二人で『うるさいオヤジだねえ』って言い合いながらまったりしてたんですよ」

 おかしそうに優香が笑う。

「あいつは本当に気立てのいい猫だったからなあ」

「ルミン、やっぱりもういないんですね」

 優香が笑みを消して言った。

「だいぶ前に死んだ。大往生だったよ」

「だから、私はルミンちゃんには会ったことがないんです」

 響子が口を挟む。

「そうなんだ。あの頃はルミンが先生の支えだったのよね。そういう意味では、彼女は私にとっても戦友みたいなものだったのよ」

「ところで優香さん、先生がルミンちゃんをどうやって拾ったかご存じじゃありません? 一度先生に訊いたら、憶えてないってはぐらかされてしまって」

 そこで、響子は的を得た質問をした。

「え、なんで?」

 優香が不思議そうにこちらを見る。

「いや、あんまり昔のことでよく憶えてなくてね。別に隠してるわけじゃないんだ」

「私には、子猫のときに親しい友人から譲って貰ったって言ってましたよ」

「そんなこと言ってた?」


(更新 2017/3/18 )


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プロフィール

白石一文(しらいし・かずふみ)

 1958年福岡市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。2000年『一瞬の光』でデビュー。09年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で第22回山本周五郎賞受賞、10年『ほかならぬ人へ』で第142回直木賞受賞。著書に『僕のなかの壊れていない部分』『私という運命について』『この世の全部を敵に回して』『神秘』等多数。最新作は『光のない海』。