第28回 (1/4) |AERA dot. (アエラドット)

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第28回

文・白石一文

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広場の端に

あるトイレに駆け込み、水道の水で手をきれいに洗い直し、ぐっしょり汗を吸ったハンドタオルを洗って絞り、ズボンの汚れを何度も拭き取った。

 リュックの中身が気になったが、ここで開封するわけにもいかない。

 トイレの庇(ひさし)を借りてしばらく雨宿りをした。

 一時的に激しい降りになったが、それがピークで、ほどなく小雨に変わった。園内には人っ子一人いない。時刻は五時をとっくに過ぎているがまだ充分に明るかった。

 一つため息をついて、駐車場に向かって歩き始める。

 掘り出した箱は車の中であらためてみるつもりだった。

「成城学園前」

で降りるのは何十年ぶりだろうか?というより記憶では、この駅に来たのはかつて一度きりだった。まだ出版社で働いている頃に、会社で発行していた小説雑誌で海老沢龍吾郎ととある女優との対談を行うことになり、編集部の面々と一緒に海老沢番として同席したのだ。女優は海老沢の小説が原作の映画やテレビ・シリーズの常連で、成城に住んでいた。海老沢とは恐らく男女の関係だったのだと思う。それもあって海老沢の方から彼女のアトリエを訪ねて、そこで対談をするという企画になったのだった。彼女は女優業のかたわら絵も描いていて、絵描きとしてもかなり有名だった。自宅のすぐ近くに広いアトリエを構えていたのだ。

 戸山公園で例の箱を掘り出して明日で一週間になる。大型連休もとうに終わって、街は都会の日常を取り戻していた。どこもかしこも人が溢れ、慌ただしい時間が流れている。

 中央改札口を抜けると、すでに昼餉時を過ぎているのに目の前の広場は人でごった返していた。改札口の正面は往来になっていて右が南口、左が北口と表示されている。広場の端には上りと下り二基のエスカレーターが設置され、吹き抜けの天井までエスカレーターで繋がった四層のフロアが見通せる。中央改札を真ん中に置いた形で四階建ての駅ビルが造られているのだった。

 改札の真向かいには小田急のスーパーがあり、北口側には流行りのカフェやパン屋が入っている。案内表示によれば、「成城コルティ」と名付けられたこのビルは、二階、三階にさまざまなショップや書店、クリニックなどがおさまり、四階はレストラン街となっているようだった。

 かつて訪ねたときは、こんな洒落た駅ビルはなかったはずだ。もう三十年以上も昔のことなのだから当然だが、こうして初めて見る風景の中に紛れ込んでも違和感はなかった。

 その違和感のなさにむしろ違和を覚えてしまう。

「グランマイオ成城学園」の所在は、ホームページで調べてきた。地図をプリントアウトしてリュックに忍ばせているが、小田急線の電車の中で何度も見直したのでしっかり頭に入っていた。

 中曽根あけみの話だと、北口から歩いて十五分くらいかかるとのこと。

 北口の正面に出て、成城石井や三菱東京UFJ銀行、成城ベーカリーやニイナ薬局の看板を目にした途端、不思議な懐かしさを感じた。

 ──「グランマイオ成城学園」の住所は成城八丁目。徒歩十五分と言われたがそこまで遠くはないだろう。ここはすでに六丁目なのだ。


(更新 2016/10/ 1 )


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プロフィール

白石一文(しらいし・かずふみ)

 1958年福岡市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。2000年『一瞬の光』でデビュー。09年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で第22回山本周五郎賞受賞、10年『ほかならぬ人へ』で第142回直木賞受賞。著書に『僕のなかの壊れていない部分』『私という運命について』『この世の全部を敵に回して』『神秘』等多数。最新作は『光のない海』。

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