小泉今日子は若いころから、「芸能界の中心で仕事してるのに、びっくりするほど『普通の人』の面がある」と言われます(注2)。宮沢りえには、特殊すぎる育ちのせいで「普通の人」の素養がありません(注3)。このため、生身の彼女そのものが「浮世ばなれ」しているといえます。

『グーグーだってである』の宮沢りえが、大島弓子の漫画の作中人物のようだと、私は先に書きました。演出の犬童一心は、撮影前から宮沢りえを気に入っていたようです。市川準監督の『トニー滝谷』(2005年)を見て、宮沢りえに引きつけられたと語っています(注4)。

『トニー滝谷』で宮沢りえは、二役を演じています。ひとりは、買い物依存症の主婦。もうひとりは、その主婦が亡くなった後、遺された大量の衣服を着るために彼女の夫によって雇われた女性です。どちらの役でも宮沢りえは、現実の人間とは思えないほど繊細な表情を浮かべています。この作品での彼女の顔は、山岸凉子の漫画の登場人物を思わせます。

 宮沢りえは昨年、7年ぶりで出演した映画『紙の月』で、2度目の日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を獲得しました。ふとしたことで横領に手を染め、真面目ひと筋の人生から享楽の世界に傾いていく銀行員・梅澤梨花。それがここでの宮沢りえの役どころです。時にはおびえたように従順。別のある時には怪物的欲望をむき出しにする。それでいていかなる場面でも、「生活臭」のようなものはみじんも匂ってこない――宮沢りえの「梅澤梨花」は、『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイに似ています。

 骨の髄まで「普通の人」とちがっているので、役に没入すればするほど「生身の人間」から遠ざかる――宮沢りえは、そういう女優です(演技している彼女が、漫画やアニメのキャラクターを連想させるのもこのためでしょう)。「スポイルされた存在」を演じたときの説得力は、それだけに比類ありません。

 小泉今日子のように、状況に応じてキャラクターを変えられる女優が、長く一線にいられるのは誰しも納得できます。それにくらべると、不動の個性を持った宮沢りえは、活躍の幅が限られるのではないか。一見したところそんな風にも思えます。

 1992年、宮沢りえは大相撲の花形力士だった貴花田(のちに貴乃花)と婚約しました。しかし、わずか二カ月後に破局。そのあと数年は、摂食障害を患っていると噂されたり、自殺未遂事件を起こしたり、苦難に見舞われつづけました。

 恵まれない幼少期を送った「天才少女」が、心の欠落を埋めるため、必死に「他者からの評価」を得ようとする。その結果、若くして大スターになるが、愛情への飢えをコントロールしきれず、活動に支障をきたす――マリリン・モンローや中森明菜が陥った「悲劇の袋小路」に、宮沢りえも足を踏み入れたのではないか。1990年代後半には、それが一般の見方でした。

 そうした評価に抗って、世紀の変わるころ、宮沢りえは「本格女優」として「復活」します。2001年には、香港映画『華の愛~遊園驚夢』でモスクワ国際映画祭主演女優賞に輝きました。『たそがれ清兵衛』での好演によって、2003年の日本アカデミー賞主演女優賞も手にします。「人気はあるが、代表作がない」という長年ささやかれてきた批判(注5)は、完全に封じこめられました。

 宮沢りえは、マリリン・モンローたちと、どこがちがっていたのでしょうか?

『紙の月』でも『グーグーだって猫である』でも、宮沢りえは、年齢相応の皺を顔に刻んでいます。実際より若く見られる配慮をほとんどしていないようです。年輪が「顔の味わい深さ」を生んでいるため、二十歳のころより現在のほうが、宮沢りえは美しく見えます。

「愛情飢餓」から「悲劇の袋小路」にはまるタイプは、絶えず「他人からの承認」を確認しないと生きていられません。「他人にどう思われようが、私は私」というのは、自分で自分を肯定している人間の発想です。マリリン・モンローのようなひとは、他人の助けなしでは、一瞬たりとも「自分の生きている価値」を認められないのです。

 こういう場合の「自分を肯定してくれる力」は、恋愛関係によってもっとも強烈に得られるようです。ステージでファンの歓声を浴びたり、映画雑誌で絶賛されたりしても、「愛情飢餓」の人間には励みにならないのです。百万人に歌や演技を望まれても、ひとりの恋人に愛されないので身動きできない――このタイプの「天才芸術家」には、そうしたことがしばしば起こります。

 顔に刻まれた年輪を隠そうとしない宮沢りえは、「他人にどう思われようが、私は私」という発想でおそらく生きています。

 映画『紙の月』のDVD版副音声で、監督の吉田大八と宮沢りえは対談しています。大島優子が手を洗っている場面で、吉田監督は「ここ、大島さん無茶苦茶ていねいに手を洗ってない?」と話を振っています。宮沢りえは「うふふ」とただ笑うだけで応じません。吉田監督は「宮沢さん、こういう話に興味ありません?」とぼやく始末です。

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