■「文学系アイドル」がいた時代

 多くの80年代の女性アイドルは、「歌と演技だけの人間と思われたくない」という願望をギラギラさせていました(詳しくは「もしも「なんてったってアイドル」を松田聖子が歌っていたら(上)」(dot.<ドット>朝日新聞出版 参照)。彼女たちは、文才や教養を誇示して「ただの芸能人」でないことを印象づけようと試みました。演技や歌といった「芸能人としてのスペック」に収まらない「特別な私」――それを証明しようと必死になっていたのです。

 小泉今日子の「夜明けのMEW」(1986年リリース)のアレンジを担当した武部聡志は、こんなことを言っています。

<(「夜明けのMEW」は)秋元康さんの詞だし、(斉藤)由貴ちゃんや薬師丸(ひろ子)さんみたいな「文学系アイドル」ではないから、ドラムやシンセの音色もちょっと派手めに作ってありますね>(注4)

「文学系アイドル」という表現に、この時代の「『特別な私』を見せつけたがる芸能人」のありようが集約されています。

 斉藤由貴は1985年、男性向けアイドル雑誌で「ルキノ・ヴィスコンティの映画と三島由紀夫の小説が好き」と語りました(注5)。今から見ると場違いな「教養自慢」に映りますが、この時代にはこうした言動が受けいれられていました。ポエムや小説をあつめた単行本も、彼女は何冊か上梓しています。パーソナリティをつとめていたラジオ番組にも、自作ポエムを朗読するコーナーがありました。

 薬師丸ひろ子は、スケジュールの合間を縫って受験勉強に励み、1983年に玉川大学に入学しました。当時は18歳人口が多く、志願者全員が入学できる「Fランク大学」は存在しません。芸能人が4年制大学に進学することは、それだけで「快挙」でした。

 1年間留年したものの、薬師丸ひろ子は大学を卒業し、ハードな芸能活動と勉学を両立させています。この実績によって、「高卒がほとんどの、ふつうのアイドルとは格が違うイメージ」を彼女は獲得しました。

 こうした「文学系アイドルの時代」を象徴するメディアが、「月刊カドカワ」です。1998年に終刊したこの雑誌は、「総合文芸誌」の看板を掲げていました。にもかかわらず、特集ページでは歌手を取りあげ、小泉今日子も二度フィーチャーされています。このうち、1990年2月号の特集には、ロング・インタビューや「読書日記」、当人自身による全アルバム解説などが載っています。

 このときの「読書日記」の前文に、小泉今日子が「芸能界一の読書家」であるというフレーズがあります。編集部には、彼女の「教養」をアピールする意図があったのでしょう。しかし、小泉今日子がここで触れている書物は、ジュニア向けファンタジーや少女漫画が中心です。文芸雑誌の読者が、「こんなハイブロウな本も読むんだ。すごい!」と感心するラインナップではありません。

 この号の目次には、五木寛之、林真理子、山田詠美、村上龍といった、現在でも人気のある作家の名前が見えます。その傍らに、斉藤由貴、尾崎豊、黒木瞳、鈴木保奈美といった芸能人の創作が並んでいます。小泉今日子が二度目に特集された1993年2月号にも、斉藤由貴、渡辺満里奈、荻野目洋子、三上博史などが寄稿しています。
 
 武部の言葉にもあるとおり、「月刊カドカワ」でポエムや小説を書いていたタレントと、小泉今日子は「別のタイプ」と見られていました。「読書日記」からも、彼女が「文学系アイドル」と一線を画していたことは伝わってきます。

 この「文学系ではない」という点では、80年代アイドルの二大巨頭だった松田聖子と中森明菜も同じです。

 ただし、松田聖子は華麗な男性遍歴で知られています。子どもの頃から憧れだったという郷ひろみをはじめ、映画で共演した神田正輝、年下の外国人、歯科医師――彼女のお相手は、女性が「こんな人と恋愛をしてみたい」と願うタイプの総カタログです。そのことが「女の子が欲しがるものはすべて手に入れるイメージ」を生み、同性の共感を呼ぶポイントになっています。

 中森明菜は、1989年、交際相手だった近藤真彦の自宅で自殺未遂をしました。以後、恋愛や事務所の移籍をめぐってトラブルがつづき、精神的な不調を伝えられるようになります。このことは、多くの男性の「自分が応援してあげないと」という気持ちをかき立て、新しいファンの獲得につながりました。

 松田聖子も中森明菜も、「歌手としてのキャラクター」と「どういう恋愛をしているか」を分けて語ることはできません。「芸能人としてのスペック」に還元されない「ドラマチックな私生活」が、彼女たちのカリスマを支えています。

 アイドル時代の小泉今日子にも、恋愛の噂は当然ありました。何回かは、写真週刊誌の標的にもされています。しかし、そうした恋愛騒動によって、彼女の歌う曲や演じる役柄は左右されませんでした。交際相手が、小泉今日子の「芸能人としてのイメージ」に影響したのは、中年に達してからです。40歳になった2006年、20歳若い亀梨和也とつきあっていることが報じられました。その結果、「美しく齢を重ねている人」として、いっそう広く認められるようになりました。

次のページ