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"物語玉"にアクセスする人たち

文・中島かずき

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『シレンとラギ』東京公演が始まっています。
 ですが、本番が始まると、現場のスタッフとは別に、僕は気がおもーくなります。今、本番が行われているということは、もうひと月もすればこの公演は終わるということ。
 つまり、僕は次の芝居の台本を書かなければならないということなのです。
 ああ、ずっと稽古してればいいのに。
 もうこれから二年間くらいずっと『シレンとラギ』の公演してればいいのに。
 そんな無駄なつぶやきが増えていくのです。

 毎回、〆切には苦労するわけですが、「もう駄目かもしれない」と思ったことは何度もあります。
 でも、おおむねなんとかなった。
 ギリギリまで粘って、「もうアイディアなんか出ないよ」と思って、もう駄目だと思う。その時、まさに"降りてくる"という言葉が一番しっくり来る形で、ひょいっとアイディアが浮かび突破口が開ける。そんな経験も何度もしています。
 そういう時は、ちょっと人智を越えたものを感じますね。

 若い頃、"物語玉"というものを考えていたことがあります。
 ユングの集合的無意識ではないのですが、個人を超えた別の次元に、物語の塊のような物が存在する。人間はその物語玉の中から、それぞれ物語を引きずり出しているにすぎないんじゃないか。そんなイメージを持っていたのです。
「作家」、ここでは「物語を語る人」という意味ですが、という才能は、その"物語玉"と接触し、そこからいろいろな物語を引きずり出すのに長けた能力を指すのではないか。そんな風に感じていたことがあります。
 その当時の僕のイメージだと、"物語玉"は何本もの糸が絡まり合ってできた巨大な糸玉という感じでした。
 その玉のあちこちから糸の端が顔を出している。
「作家」は新しい物語が必要になると、適当な糸を選んでそっと引っ張る。糸を正しく選び、正しい引っ張り方をすれば、その糸はするすると出てきてきれいな一本の「物語」になる。ところが間違った糸を選んだり、無理矢理糸を引っ張ると、たちまち糸は切れてしまう。切れた端を結んで、また引っ張り、また切れてを繰り返して、なんとか騙し騙しながらも最後まで糸が引き抜けたとしても、それは途中に結び目が出来た美しくない「物語」になってしまう。もっとひどい時は別の糸に結んで引っ張ったりして途中で糸の色が変わったり、切れた端を見失って宙ぶらりんの糸のままで終わったり。
 いい「作家」は、この糸を引っ張り出し方がうまい人なんじゃないかなあと思っていた時期があったのです。
 
「物語は自分の中にあるのではなく、どこか別の場所から見つけてくるものだ」という感覚は、漫画家の島本和彦さんや作家の皆川博子さんが同様なことを書いていたので、「ああ、話を作る人間は、同じようなことを感じるんだなあ」と思いました。 
 そのくらい「なんでこんなことを思いついたんだろう」と自分でも不思議になる時があるのです。
 多分、頭の中でああでもないこうでもないと色々なアイディアを検討している時に、無意識のうちにそれがリンクして新しいアイディアを生んでくれるのだと思うのですが、それよりも、人間の集合的無意識の海の中に"物語玉"が浮かんでいる風景を想像した方が面白いですよね。

 でも、今は"物語玉"の有り場所がわからなくなって右往左往している感じです。
 はやく見つけて、この〆切を乗り切らなければ。


(更新 2012/5/31 )


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プロフィール

中島 かずき(なかしま・かずき)

 劇作家、脚本家。福岡県出身。1985年より劇団☆新感線の座付き作家に。「阿修羅城の瞳」「髑髏城の七人」などの物語性を重視したエンターテイメント時代活劇"いのうえ歌舞伎"を多く生み出す。「アテルイ」で第47回岸田國士戯曲賞受賞。コミック原作や、アニメ「天元突破グレンラガン」(07、09)脚本・シリーズ構成、「仮面ライダーフォーゼ」(11)メイン脚本など幅広く活躍。脚本を手がけた「真田十勇士」(演出:宮田慶子、主演:上川隆也)が8月から上演される

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