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寂しくも懐かしい少年期を過ごした炭鉱町文・中島かずき |

ゴールデンウイークは、福岡に帰省していました。
法事だったので、親戚が一堂に会します。子供の頃一緒に過ごしたいとこと久しぶりに会い、「庭の柿の木がなくなったね」とか「昔住んでいた炭住は、全部綺麗な団地になったね」とか、つい昔を懐かしみます。
僕の故郷は炭坑町でした。いとこが住んでいた炭住というのは炭坑住宅の略称で、炭坑労働者が住む長屋のことです。これが軒を連ねて並んでいた。
1960年代初めまではとても栄えたのですが、それ以降は人口が減る一方です。それでも僕が物心ついた頃はまだ栄えた名残があった。
映画館も市内に四つくらいありました。
駅前のアーケード商店街もにぎやかだった。
それが、今では開いてる店の方が珍しい。シャッター商店街の見本です。
町にあった最後の本屋もとうとう閉じてしまった。
最後の映画館はバスターミナルの二階にあったのですが、今では上に上がる階段は閉鎖され、ターミナル自体寂しいものです。夜九時をすぎるとタクシーもいない。
どうしても「昔はにぎやかだったね」という話になりました。
「とうとう町に行くバスが一時間に一本になったよ」と、母が言います。
昔は、15分に一本くらいあった町へのバスが、そんなに減ってしまった。歩くと30分くらいなので、元気があれば歩く方が早かったりする。
田舎は車がないとダメですね。僕は運転免許を持っていないので、田舎に帰るとほんとに何の役にも立たない人間以下の気分になります。
でも、考えてみれば、子供の頃から斜陽の町でした。自分の少年期が高度成長時代だったので、日本全体は上向きな気分でしたが、自分の住んでいた町は上がり目が見えなかった。あの時代に珍しいマイナス成長の環境だったのですね。小学校も自分たちの学年までは一学年四組だったのが、一つ下から三組になった。のきなみ炭坑が閉山して、人口流出が顕著になった時期だったのでしょう。同じ町で育ったいとこも、小学校の時に、まだ炭坑があった大牟田に移っていったりしたし。
基本的には人生の前半を、高度成長期からバブルの時代に過ごした世代です。生まれたときから経済低成長の今の若者たちに比べれば、どこか能天気な世代であることは否定できません。
でも、その中にちょっとトゲのように引っかかっている気分があるのは、子供の時にあの町ですごしたからだろうなと、改めて思うのです。
そして、結果的にその気分を持っているのは物書きとしては悪いことではないなと思っています。
しかし、福岡は黄砂が激しかった。
今でもゴールデンウイークに福岡にはちょくちょく戻っているのですが、自分が暮らしていた頃に比べても、ひどくなっている気がします。
あんなに先が見えないのは生まれて初めてでした。
中国の砂漠化が進行しているせいかと思うと、ちょっと怖くなりました。
(更新 2011/5/12 )

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プロフィール
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中島 かずき(なかしま・かずき) 劇作家、脚本家。福岡県出身。1985年より劇団☆新感線の座付き作家に。「阿修羅城の瞳」「髑髏城の七人」などの物語性を重視したエンターテイメント時代活劇"いのうえ歌舞伎"を多く生み出す。「アテルイ」で第47回岸田國士戯曲賞受賞。コミック原作や、アニメ「天元突破グレンラガン」(07、09)脚本・シリーズ構成、「仮面ライダーフォーゼ」(11)メイン脚本など幅広く活躍。脚本を手がけた「真田十勇士」(演出:宮田慶子、主演:上川隆也)が8月から上演される |