Zeebraと日本のヒップホップ【世界音楽放浪記 vol.19】
Zeebraと日本のヒップホップ【世界音楽放浪記 vol.19】

「ヒップホップとは?」
4つの主要素~ラップ、グラフィティ、ブレイクダンス、DJ~と、解析できる方は数多いだろう。では、「日本のヒップホップとは?」その問いには、私は当初、答えの手がかりも掴めなかった。音楽的要素で考えれば、民謡の「秋田音頭」のように、世界的共通性を持つ口承曲が存在する。吉幾三さんの「俺ら東京さ行ぐだ」(1984)や、小林克也さん率いるザ・ナンバーワン・バンドの「うわさのカム・トゥ・ハワイ」(1991)などは、紛れもなく日本語のラップの先駆的存在だ。

ヒップホップは、その名が表すように、「下から上へ」と、現状を抜け出したい人々により、ニューヨークのブロンクスで1970年代に生まれたカルチャーだ。しかし、現在のようにリアルタイムで世界中の音楽を聴くことが難しかった当時、日本では、少し斜に構えている良家の子弟のような立場でないと、手に取り、感受することが難しかった。それ故に、「上から下へ」というベクトルで、「今夜はブギー・バック」「DA.YO.NE」(いずれも1994)のように、クールで心地よい音楽として世に知らされた。

難度の高い問いを解くヒントを見つけられたのは、Zeebraさんのおかげだ。彼は、一言で表現するとジェントルマンだ。何回か仕事を重ねる中で、共にアメリカ東海岸を訪れ、ヒップホップの源流を見つめてみたいと考えた。2014年冬、最初に訪れたのはボストンにある名門大学のMIT(マサチューセッツ工科大)だ。MITをはじめ、ハーバード大、ボストン大などの日本研究者で構成された「Cool Japan Research Project」を主宰するイアン・コンドリー教授は、日本のヒップホップの研究家でもある。開催されたシンポジウムで、Zeebraさんは自らのヒップホップとの出会いや、どのように日本で活動しているかなどを、英語でスピーチした。その夜、学者らが集うクラブでのパーティーで、彼はDJを務めた。ウイットに富んだ日本語のヒップホップナンバーが流れ、非常に盛り上がった。

ボストンでは、当時、バークリー音楽大学に留学していた寺久保エレナさんとも、シャンソンの名曲「枯葉」をセッションした。俊英の在学生や凄腕の教授らによる録音は、珠玉の響きだった。

ニューヨークでは、コロンビア大の学生に、日本語のラップを伝授した。「悪そうなヤツは大体友達」※。世界中から集まった秀才たちは、笑いながらライムを唱えた。ヒップホップは、バックボーンも国も立場も関係ない、個に根を張る、魂を解き放つ表現文化だ。長年の疑問が、ようやく氷解した気がした。

2017年。慶大での私の講座の後任をどうするかという照会に対し、そのうちの一人としてZeebraさんの名を挙げた。私の講義にゲストスピーカーとして招いた際の理知的な対応を見て、教師としての素養があるように思えたからだ。当初は、母校を志半ばに去った彼が先生として戻るという、ステレオタイプのヒップホップ的なストーリーが思い浮かんだ。そんな安っぽい想念をはるかに上回る授業が繰り広げられた。日本のヒップホップスターは、自らの見識や経験を体系化して、半生で得た知見の全てを、あますところなく受講生に伝えたのだ。その秋、慶大の学園祭である「三田祭」で行われた「ラップ早慶戦」で、ZeebraさんはMCを務めた。実に楽しそうな表情をしていた。結果は、アウェイである早大の学生ラッパーが勝利した。早慶のようなトップ大学の出身者がけん引し、いまでは大衆文化の一つとして興隆している日本のヒップホップが光を放つ、印象的な夕景だった。Text:原田悦志

原田悦志:NHK放送総局ラジオセンター チーフ・ディレクター、明大・武蔵大講師、慶大アートセンター訪問研究員。2018年5月まで日本の音楽を世界に伝える『J-MELO』(NHKワールドJAPAN)のプロデューサーを務めるなど、多数の音楽番組の制作に携わるかたわら、国内外で行われているイベントやフェスを通じ、多種多様な音楽に触れる機会多数。

※Dragon Ash「GRATEFUL DAYS」より引用