翻ってみれば、日本におけるオリジナルプリントの販売は1960年代後半に細江英公らによって始められるのだが、その主眼のひとつは写真家の自立だった。雑誌や広告のために写真を提供するより、自らの作品による活動、つまり写真を市場で売ることで正当な評価も、対価も得られると考えられた。ただ、そのためには尾仲のようにコミュニケーション能力と手段を強化し、営業も自分でこなすタフさを必要とする。もちろん、それでも成果を得られる保証はない。

 海外の写真マーケットで評価される基準は「国際性と歴史性だ」と、2015年1月号の「『見る』側からの視点、そして『文脈』と評価」でタカザワはそう断じている。「二つの軸で普遍性を持ちうるか、あるいは、その反対に異端として個性を発揮できるか」が重要なのだと。

 とはいえ、その基準に適さない写真に価値がないということではない。たとえば歴史的な史料性が大きいが、市場にはなじまないものも少なくない。考えてみれば、それをすくい取る役割を果たしてきたのが、カメラメーカーのギャラリーや写真雑誌のグラビアページだった。そしてこの混然とした場では、さまざまな写真の価値観が互いに影響を与え合うことも多く、それが西欧から見てユニークな日本写真が生まれる母体のひとつだったといえる。

 写真市場のなかで位置を求める写真家の姿勢がよく表れているのが、ホンマタカシがホストを務める対談連載「今日の写真」である。たとえば14年7月号では、銀座と大阪のニコンサロンで開催された金村修「AnselAdamsStardust(You are notalone)」を俎上(そじょう)に載せている。この年の伊奈信男賞を受賞した同展をホンマは評価しながら、展示する場が違うのではないかと問う。「ちゃんと美術館につながっていて、アーティストがアーティストの活動だけで生きられる状況のなかにいたほうがいいと思う」からだ。それに対し、ゲストの批評家倉石信乃は、ニコンサロンはいまも一定の重要な位置を占めており「ああいう空間で展示することで生きる良質な作品は依然としてある」というが、同時に限界はあっても「時代とともにメーカー系ギャラリーも変わっていかなきゃいけない」と述べている。

 この回では倉石も参画する写真分離派が、京都の大学で開催した「日本」展の場も話題になっている。これをなぜ首都圏で開催しないのかとホンマが尋ねると、倉石は、東京には「手頃なスペースがないんです。ノンプロフィットで展覧会の助成をしてくれて、グループ展ができるくらい広くて、というところがない」からとのことだった。

 また同連載では、現代美術のアカデミズムが写真家から買いかぶられすぎているのではないか、という懸念が美術関係者のゲストから示されることもあった。写真を発表する場の変化は、その時代における写真文化の位相を如実に語るのである。

写真雑誌か、カメラ誌か

 メーカー系のギャラリーと同じく、本誌にも大きな変化が迫られていた。写真というジャンルの幅と裾野が拡大してそれぞれの階層が分化する一方、発行部数が減少して広告出稿も減じたからだ。

 もともと総合写真雑誌は、編集部が「中華丼」と自称するほど多彩で細かなコンテンツの集合体である。バイヤーズガイドと写真評論のように関連性が薄いページが混在し、それぞれのコンテンツに読者がつくことで成り立っていた。だが部数の低下局面では、逆にその立ち位置のあいまいさがマイナスとなってきた。では、その変化にどう対応すべきなのか。

 14年4月1日付で編集長に就いた佐々木広人の結論は、多様なコンテンツをひとつのパッケージにすることだった。佐々木自身の言葉でいえば、読者が「グラビアを見て刺激を受け、写真家の撮影術や心構えを学び、カメラを使いこなして『納得』の一枚を撮る」(同年8月号編集後記)ことを促す誌面構成にすることである。

 それを試みたのが、8月号のグラビア連動企画「都市を撮る」だった。ここでは松江泰治と北野謙のランドスケープ作品をベースに、二人への取材、都市写真の流れの歴史、都市写真の祖といえるウジェーヌ・アジェについてなど5項目を重層的に並べた。それは「即物的な撮影術とは一線を画した、『写真と向き合うための心得』」であり、茶道や武道の「心技体」に通じる写真愛好者の、基本的な所作だと佐々木はいう(同右)。

 同年12月号では「『史上最高』の読みやすさへ」とのコピーを掲げて誌面刷新を予告。「『昔の名前で出ています』ではもはや通用しなく」なったとし、「学べる写真雑誌、使えるカメラ誌」をモットーにすると宣言している。

 そして翌15年1月号からは「都市を撮る」を発展させた、毎回50ページを超える総力特集が組まれるようになる。「第1特集が巻頭グラビアから記事までぶち抜くスタイル」(佐々木、同年7月号編集後記)のなかに、そのテーマについての撮る・読む・知るの3要素を詰め込む、いわば一点突破全面展開の戦術ともいえよう。

 佐々木はまた創刊90周年を迎える16年1月号で、安井が予測した、写真家が「全く普遍化」した時代、つまり「総写真家時代」でも、人の心を動かすには「プラスα」が必要だと書いた。もしそうなら、その部分は歴史のなかにヒントを見つけられるだろう。

 たとえば15年11月号の総力特集「『肖像権時代』のスナップ撮影」から始まる、話題を呼んできた肖像権をめぐる企画でもそうだ。スナップショットは、時代の風景を記録するための、写真でしか成し得ない手法だ。そこであらわにされた人と場所の意識的あるいは無意識的な関係は、もはや社会を理解するのに欠かせないアーカイブとなっており、間違いなく今後も機能し続ける。それゆえ法律やマナーにグレーな部分は解消しつつも、スナップショットは重要な文化だと訴える責務が総写真家時代の写真関係者には生じている。

 そして、このことを証明する重要な資料のひとつが、本誌90年間の歩みのなかで積み上げられた膨大なバックナンバーなのだ。これをひもとけば、豊富すぎるほどの実作と理論、そして実験と議論に突き当たり、しかもそれを時系列で理解することができる。 おそらく本連載は、このために企画されたのだろう。もっとも、それに応えたという自信はない。しかも当初予定していた1年の倍の期間を費やしながら、なお語れていない分野やエピソードは多く、掲載後に知った事実も少なくない。

 その幾つかは稿を改め、近いうちにぜひ紹介したいと思っている。