暴力的に街をとらえた同作に「カメラ毎日」の西井一夫が解説を寄せ、北島の見事さは「被写体を感じ撮った“見る感性”」にあり、「あらかじめのイメージにとらわれずに光景に立ち向かっている」からこそ、対象の力強さがストレートに出ているのだと述べた。さらに、北島に大きな影響を与えた森山が60年代後半そうであったように、北島は「80年代の同伴者になるだろう」と予測した。

 この号では、写真展評で評者の長谷川明が北島を高く評価するほか、重森も座談会「82年の展望のなかで」で大きな成果と位置づけている。そこで当然、北島はこの年の木村賞の本命とみられていたが、最終選考で受賞を逸す。

 82年に選ばれたのは渡辺兼人で、対象作品は作家の金井美恵子との共著『既視の街』(新潮社)と同名の写真展だった。何の変哲もない街の一角を、正方形の画角に収めた静かなその写真は、見るたびにいくつもの違った感触と想像が立ち上がってくる。その写真的に「ものを見る〈力〉」(渡辺義雄評)が評価されたのだった。

 一方の北島は11月に写真集『New York』(白夜書房)を出版し、翌年、ついに木村賞を受賞。6月の授賞式では、写真の師にあたる森山に感謝を述べている。その森山も、このころようやく浮上しはじめたようだった。復活を印象づけたのは82年4月号から翌年6月号まで連載された「犬の記憶」である。これまで暮らした土地を巡り、写真と言葉でその生い立ちを再構成するという企画は、写真を撮り続けることの意味を自身に問うことでもあった。最終回で森山は、記憶を追うことは「これから遭遇する風景に対して、記憶をきっかけとして予見する、その意味を問い直す行為」だと悟り、「写真は記憶であり、そして写真は歴史である」と結んでいる。

 森山のかつての盟友、中平卓馬も別の意味で再起していた。連載「決闘写真論」の翌77年、中平は急性アルコール中毒による逆行性記憶喪失になり、かつての鋭い言葉を失った。だが肉体が回復すると、写真家としてはほぼ毎日、自宅周辺で写真を撮り、プリントを焼く日々を送るようになっていた。

 そして、中平は本誌78年12月号に再起作「沖縄 写真原点1」などを発表し、83年1月には写真集『新たなる凝視』(晶文社)を出版した。それは「歴史」に目を向けた森山とはあまりにも対照的な、現在しかもち得ない写真家の、鬼気迫るような写真群だった。

アメリカの新しい写真

 中平の膨大な写真すべてに目を通し『新たなる凝視』を編集したのは、80年に写真論誌「写真装置」(写真装置舎)を創刊した写真家の大島洋である。その創刊号に、80年代は「眠りこけてきた『知』との決別の年代(とき)」になるだろうと書いた大島は、本誌82年4月号の時評欄にも「新たな『写真論』への模索」を寄稿して、「写真の歴史がつくりあげてきた文脈や、写真の価値体系と写真の制度の読み直しの作業」に取り組む必要を強調した。すでに「写真の加速度的変容は、写真表現の歴史がこれまでつくってきた基準では律することができないところまできた」からである。

 機材の技術革新が進み視覚メディアも多様化してちまたにあふれている。公的、社会的、私的のすべての領域において、目に見えるものすべてが、あらゆる手段ですでに撮りつくされ、提示されている。このような社会状況の認識のなかで、写真を語りうる新たな言葉が求められていた。

 たしかに80年前後から写真をめぐる言説は広がり、芸術評論誌の「ユリイカ」(青土社)80年10月号で「特集:写真とは何か」が組まれるなど、社会学的な文脈や文化論として語られるようになっていた。ことに刺激を与えたのは、アメリカの批評家スーザン・ソンタグの『写真論』( 79年 晶文社)、フランスの記号学者ロラン・バルトの『映像の修辞学』( 80年 朝日出版社)と『明るい部屋』(85年 みすず書房)などの翻訳書であった。

 それに応じたように海外の“ニューウェーブ”と総称される、新しい写真表現のムーブメントも紹介され始めている。

 ことに81年から本誌で連載された、ニューヨーク在住の美術家小久保彰の「ニューヨーク通信」では、サンディ・スコグランド、ジョン・デボラ、ウィリアム・ウェグマンなどのコンストラクティッド・フォトがよく取り上げられている。それらは広告イメージの引用や流用などによって画面を構成する、キッチュな遊戯性を強く打ち出した作品群だった。このほか「マルチプル・イメージ」「ビッグピクチャー」「ニューペインティング」「中性的な性」といった動向も紹介された。総じて、これらは現実の投影としての写真への批判を含む、いわば「反写真」であり、写真と美術のクロスオーバーから生まれたジャンルだと小久保は述べている。

 83年には巻頭で「現代アメリカ作家シリーズ」が連載され、小久保の記事と連動して作品が掲載された。8月号には、この連載とは別にロバート・メイプルソープがはじめて取り上げられている。美術ジャーナリストの高野育郎は、セックスをアートに昇華させたこの青年こそ「アメリカ現代写真界の今やヒーロー的存在」だと解説した。

 パリの写真シーンも注目された。フランスでは50~60年代にかけアンリ・カルティエ=ブレッソンやロベール・ドアノーらが活躍したが、その後、アメリカに比べて停滞が続いた。それが70年代後半から商業ギャラリーが増加し、77年に開館したポンピドゥー・センターでも写真の収集と展示が始まった。さらに80年には隔年で「パリ写真月間」がスタートするなど、行政の肝いりで写真文化の振興が図られるようになった。現地の活発化する模様は、82年から連載された「ヨーロッパ通信」などで、写真エージェントの倉持和江や、パリ在住の写真家白岡順らが紹介した。

 当時、パリで最も注目されていたのは、マネキンを使い少年期の記憶をファンタジーとして再現するベルナール・フォーコンだった。83年2月号の巻頭「ベルナール・フォーコンの世界」では、ヨーロッパ的なコンストラクティッド・フォトといえるその作品が、16ページで紹介され、作家で木村賞の審査員も務めた安部公房との対談が企画された。

 そして海外の写真家のなかに交じって、83年4月号では、杉本博司の「劇場」が、珍しい“観音開き”のレイアウトで掲載されている。これは2月にツァイト・フォト・サロンで開催された個展のタイミングに合わせたもので、アメリカで活躍し、ニューヨーク近代美術館にも作品が収蔵された作家として注目されたのだった。