「かつては約3000人の児童がいましたが、現在は451人しかいません。殺されたり、いなくなったりしました。教員は現在、私を含めて6名のみです。テロリストはこの学校を占領し、住み込んでいました。彼らは机を壊し、焚き木として燃やしました」

 今、必要としているものは何か。

「まず、机がほしいです。今は床で授業を受けるしかありません。先生も必要です。紙、ペン、教科書がありません。給食も欲しています。給食が再開されれば学校に戻ってくることができる児童がたくさんいますから。そして、制服を作れないことに困っています。学校では、身なりの貧しい子どもと裕福な家庭の子どもが一緒に授業を受けます。今は、身なりが原因で、互いを敬い合うことができません。だから制服が必要なのです」

 その後もダド先生はよどみなく、この学校の置かれた状況を説明してくれた。去り際に彼女は、こう付け加えた。

「もし(日本の人たちが)助けてくれるならば、どうか、どうか、どうか、学校を助けてほしいと伝えてください」

 思わせぶりな返事をしたくなかった私は、約束できるのは伝えることまででしかないと伝えると、「そうであっても、あなたに感謝します」と彼女は言った。

 その後、アリさんのバイクに乗り、裁判所、魚市場、病院、学校、税務署などを巡った。どこも、銃弾の跡ででこぼこになった壁に、焼き打ちのための煤(すす)が見られた。人影はなく、復興のかけらもない様子だった。私が見た中でかろうじて機能していた施設は、話を聞いた役所と学校だけだった。

 自動車用オイルを販売する商店も焼き打ちにあっていた。近くにある他の商店は、物は取られたものの焼き打ちにはあっていない。この町を襲った者たちが、徹底して、町の「機能」を狙って破壊していったことを、改めて目の当たりにした。

 せめてもの救いを感じられたこともあった。

 木陰でたたずんでいたマイガ・ミンカイバ・アライェさん(66歳)に話を聞いたときだ。襲撃時の様子をたずねるとマイガさんは「この世にあるすべての悪事を見ました」と話し、下を向いてしまった。マイガさんはトラックドライバーだったが、車を壊されてしまい、全く仕事にありつけていないと言う。その後も話を聞いていると、マイガさんのもとに、20歳前後の青年が歩み寄り、1000CFA(約200円)紙幣1枚と、紙切れに包んだ魚のフライを手渡した。この青年もまた、マイガさん同様、トラックドライバーだという。ごく限られた収入を得るたびに、その一部をマイガさんに分け与えてくれているらしい。マイガさんとこの青年は親子でもなければも遠戚でも無い。これほどの困難な状況においても、アフリカ各地で広く見られる助け合いの精神が見られたことに、私は感嘆した。

 ニャフンケが襲撃を受け占領されていたのは、2012年のことだ。その後4年の月日がたったが、人も活気も、もともとそこにあったはずの生活も、まだ何も戻っていない。戻ってきたのは、破壊と略奪がない日々のみ。静けさはあるが、平穏とは到底言えない。ほとんどのインフラは今も止まったままだ。医療を受けるにも、銀行で現金をおろすにも、1泊2日かけて船に乗り、モプチまで出なければならない。

 ニャフンケは、この世界から放置されているように感じた。助けあいにも限界がある。放置され続けた先に何が起こるかを思うと、私は今も、ひたすら暗い気持ちにしかなれない。

 私たちは、週1便あるモプチ行きの客船の出航を待たず、モプチ方面へ向かう木材運搬船を見つけて乗り込むことにした。お互いにモヤっと暗いものを抱えたまま、帰路に着いた。

【※注1 マリ北部における紛争】
2012年よりマリ北部を中心に続く武力闘争。マリ北部の自治拡大・分離独立を求める現地勢力に加え、リビアのカダフィ政権崩壊に伴い武器とともに流入した外国人勢力や、AQIM(イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ)と共闘する勢力など、複数の出自の異なる勢力がマリ政府に対し攻撃を続け、一時は同国北部の3都市(キダル・トンブクトゥ・ガオ)が反政府勢力によって占領された。その後、フランス軍やチャド軍の介入により北部は奪還され、MINUSMA(国連マリ多面的統合安定化ミッション)の常駐により、一程度の平穏は得られているものの、散発的な攻撃やテロは治っておらず、予断を許さない状況にある。

岩崎有一(いわさき・ゆういち)
1972年生まれ。大学在学中に、フランスから南アフリカまで陸路縦断の旅をした際、アフリカの多様さと懐の深さに感銘を受ける。卒業後、会社員を経てフリーランスに。2005年より武蔵大学社会学部メディア社会学科非常勤講師。ニュースサイトdot.(ドット)にて「築地市場の目利きたち」を連載中