1960年の戸惑い

 60年は新年号から「“新しい写真表現”の試み」といえる3本の連載が始まっている。北海道の歴史性を重層的に浮かび上がらせた奈良原のカラー作品「カオスの地」、時事問題をテーマにした長野重一の「話題のフォト・ルポ」、そして在日米軍基地の周辺を撮影した東松照明の「基地」である。

 このなかで長野は、奈良原や東松より5歳ほど年長で、集団フォト世代に入る。ただ、その「フォト・エッセイスト」と称された作法は、「第三の新人」たちの表現性と近い。日常生活から社会的なテーマを見つけ、正論やコンセンサスをひっくり返して、個人的な視点と生理的な感覚によって撮影していた。

 そんな長野だが、この連載では様子が違っていた。日常生活ではなく、日米安保条約改定前後の政治状況をテーマに据えることが多く、「ある学生たち」(2月号)、「警視庁機動隊 国会流血事件前後」(8月号)、「政治屋たち」(9月号)、「選挙区の名士たち 池田首相のお国入り」(11月号)と全体の3分の1を占めたのである。そこには戦時下に大学時代を過ごし、多くの同輩を戦場で失った世代としての怒りがストレートに表明されている。

 また翌年7月号では「空と海との間に ある鉱山企業の歴史」を15ページにわたって発表している。愛媛県にある別子銅山の現在から、財閥を基礎にし、日本の資本主義の発展過程を象徴的に表現しようとした意欲作だった。

 東松の「基地」は、戦後の社会状況を米軍基地の街を通して描出したもので、長野の「話題のフォト・ルポ」に比べてかなり詩的である。後にこれが「占領」シリーズと呼ばれるのは、いずれの冒頭にも「とつぜん 与えられた 奇妙な果実 それをぼくは<占領>と呼ぶ」というコピーが挿入されたからである。

 占領は以降も東松にとって重要なテーマであり続けるのだが、このときは「HARLEM(黒人街)」(横須賀)、「視線」(千歳)、「周辺の子供たち」(三沢)の3回で終わった。一部の強い支持を集めたものの、多くの読者と編集者には戸惑いを与えたようだった。

 その戸惑いを解きほぐすべく、評論家の渡辺勉は9月号に「新しい写真表現の傾向」を寄稿した。渡辺は、新しい写真家たちは写真という表現ジャンルが確立した後に育った世代だから、「写真の視覚的表現力を自由に探究」できるという。そんな彼らは、事実を伝達するために映像的レトリックの効果を用いるのではなく、方法論そのものに自己のイメージを託す。このような傾向は「これから普遍的となりつつある」のだと渡辺は説いた。

 だがこの理解に対し、翌10月号で名取洋之助が「新しい写真の誕生」で異議を唱えた。名取は、「新しい写真」とは組写真におけるイメージの連なりのなかでこそ現れる傾向だとし、それを論証するために同じ「岩波写真文庫」出身の長野と東松を例に挙げる。

小さな論争

 長野と東松、この二人は報道写真から出発したものの数年前から違う道を選んだ、と名取は言う。長野の場合、映像的なレトリックを駆使してもそれは「ストーリーを理解しやすくするための手段に過ぎず」、本来の報道写真家の舞台ではない写真雑誌でひとつの「芸当を見せただけ」のことである。

 一方、東松は組写真からストーリーを消し、イメージのみを残す道を選んだ。それは報道写真家にとって必要な「特定の事実尊重を捨て」て「時とか場所に制限されない方向に進む」ことである。つまり、彼は「報道写真とは、時間、場所にとらわれないことによって絶縁してしまったのだ」。

 さらに11月号では東松が「僕は名取氏に反論する」を、奈良原が「ある未知への発端」を発表してこれに反論した。ここで東松は、自分はそもそも名取のいう報道写真家ではなく、「いわゆる報道写真を拒否したまでだ」と述べる。なぜなら「写真の動脈硬化を防ぐためには『報道写真』にまつわる悪霊を払いのけて、その言葉が持つ既成の概念を破壊すること」が必要だからだ。この「悪霊」とは、名取らが主導して軍国プロパガンダに陥った、戦前の報道写真の歴史に対する端的な形容である。また奈良原は、自身が写真に関わる理由は、個人的な生理感覚によるものだとした。

 以上のやり取りは「名取・東松論争」と呼ばれ、誌面に小さな波を立てた。

 その余談ではあるが、論争の発端となった名取の「新しい写真の誕生」は、当時から名取ではなく、そのマネジャーの犬伏英之が書いたものと推測されている。それは東松自身も感づいていたようだ。ただ、さらに後になって、「岩波写真文庫」時代から常に名取が自分に仕事を回していたことを知り、「そういうことを分かっていればあんな論争できないですよ」(『写真年鑑2008』日本カメラ社)と振り返っている。

 さて、翌61年にはかつて朝日新聞出版局写真部のカメラマンが担当していた「現代の感情」が、新しい写真家を紹介するためのページとして復活している。そのラインアップは川田喜久治、川島浩、今井寿恵、中村正也、石黒健治、藤川清という、すでに知られた才能だった。これが62年には「新人」と改題され、キャリアの少ない若手にとって登竜門的な役割を果たすようになる。

 むろん本誌は、新しい写真家ばかりを取り上げていたわけではない。61年には濱谷浩が「日本列島」を連載し、その迫力に満ちた空撮は読者の大きな反響を呼んでいる。これは国民的な盛り上がりを見せた安保闘争をすぐに忘れた日本人の国民性に疑問を感じた濱谷が、その心性がどんな地形や風土から育ったのかを見つめようとしたシリーズだった。

 日本人が戦後の高度経済成長を実感しているこの頃、日本人の民族性をテーマに据えた作品は少なくない。その筆頭は間違いなく土門拳で、彼は59年に1年間、「カメラ毎日」で「古寺巡礼」の連載を手がけ、それと並行して本誌でも全国の祭礼をめぐる「日本風土記」を、62年には歴史的な建築や遺物を凝視した「偏執狂的な風景」を連載した。さらに、この間の60年には『筑豊のこどもたち』とその続編を出版したが、同年、脳出血で入院を余儀なくされ身体的なハンディを負った。

 こうして写真雑誌の主役が交代しながら、誌面を飾る写真表現の範囲も拡大していった。高度経済成長とともに広告やファッション、あるいは自然をテーマにした写真が誌面に華やぎをもたらすのである。