その大竹の出世作となったのが、51年に本誌で始まる、来日した音楽家たちのポートレートの連作「世界の音楽家」だ。日本人離れした洗練された華やかさと、被写体の内面的な影が同時に表現された写真は人気を呼び、55年に朝日新聞社から写真集として出版されている。同書に寄稿した津村の文によると、当時の大竹は行き詰まりを抱えており、その打開策としてこの企画を提案したとある。

 さらに津村は、敗戦の年末に創設された朝日新聞出版局写真部から吉岡専造、大束元、船山克を見いだした。大束は三木らと担当した連載「新東京風景」で都市の情景を叙情的に描写し、吉岡は50年9月号で大関千代の山の力感にあふれた「闘魂」で強い印象を与えた。船山はこの2人に刺激されて、光の効果を生かしたフォトジェニックな作品を発表する。

 いつしか「朝日の三羽烏」と称された3人の真価が発揮されたのは52年5月号から5年半続いた連載、社会状況を戯画的に捉えた「現代の感情」だろう。さらに3人は他誌からの原稿依頼も引き受けるなど、スタッフカメラマンの枠を超える活躍をみせた。

 このほか、奈良で古寺古仏を撮る入江泰吉(※「吉」の字はつちよし)、長野県・安曇野で山岳写真と高山蝶の研究に励む田淵行男、誠文堂新光社の編集者で自然写真家の田村栄なども起用した。いずれもそのジャンルの第一人者となる人材だった。

アメリカ

 こうした布陣に加え、津村が重視したのは、アメリカを中心としたフォトジャーナリストの動向である。まず復刊の翌11月号で金丸、伊奈信男、木村による座談会「戦後アメリカの写真芸術」を開き、ユーサフ・カーシュ、アーヴィング・ペン、リチャード・アヴェドン、ロバート・キャパ、ウィージー、ユージン・スミス、アンリ・カルティエ=ブレッソンらを紹介。翌号から「海外有名作家紹介」を開始し、作品とその横顔を詳しくリポートした。52年からは「USカメラ年鑑」と特約し、より幅広く海外写真家の紹介を行うようになった。

 米軍を核とする連合軍の占領下にあった当時、「ライフ」や「ルック」といったグラフ誌への関心は戦前よりもはるかに高かった。また日本に支局を開く通信社も多く、多数の写真家が来日した。彼らは日本人が制限されていた事象も取材でき、それを国際的に発表した。先にあげた日本の若い報道写真家たちはそれを羨望(せんぼう)し、彼らに伍して活躍することを願っていた。

 この願望がかたちになったのが、49年の日本青年写真家協会や翌年の集団フォトの設立である。ことに後者は、カルティエ=ブレッソンやキャパらが47年に設立した写真家集団マグナムの結成を意識したもので、三木淳を代表に、大竹省二、稲村隆正、樋口進、山本静夫、石井彰、佐伯義勝、田沼武能が参加し、顧問には木村伊兵衛と土門拳が名を連ねた。彼らは展示などで写真家が主体性をもった、新しい時代の報道写真を啓蒙した。

 翌50年に朝鮮戦争が勃発すると、東京は戦線取材の後方基地となった。デビッド・ダグラス・ダンカンを筆頭に、写真家の来日はさらに増え、本誌では彼らを囲む座談会がひとつの名物になっている。

 そのダンカンらは日本製のカメラとレンズを高く評価し、アメリカのメディアが大きく報じたことで、日本のカメラ産業は大きな飛躍の機会をつかむことになる。

「リアリズム」と「シャッター以前」

 復刊以降、本誌は順調に部数を伸ばし、54年には戦前の記録を更新して16万部に達した。その成長は、ここまで見てきたように津村の慧眼(けいがん)によっていた。

 写真評論家の重森弘淹が後に述べたように「復刊『アサヒカメラ』はまさしく『Q』の作品だといっていいほど、『Q』の個性が充実していた」(本誌78年4月増刊「日本の写真史に何があったか」掲載「模索の一九五〇年代・『アサヒカメラ』復刊以後」)である。そして、その個性が最も発揮されたのは批評欄だと重森はいう。

 じっさい津村は理論面での柱として、戦前から知られた伊奈に加え、登山家でもあった評論家の浦松佐美太郎を起用している。55年まで毎年新年号に掲載された、この二人を軸とした評論家たちの座談会「作家と作風を語る」や、毎号の「対談批評」は非常な辛口で読者を驚かせるものだった。重森はこうした批評の背景に、当時「カメラ」誌で盛り上がっていたリアリズム写真への対抗意識があることを指摘している。

 よく知られるように、リアリズム写真は、50年から「カメラ」誌で月例の審査を務めた土門が、アマチュアに示した方向性である。ここで土門は熱のこもった長文の選評を書き、そのなかでマチエール、モチーフ、パンチュール・オブジェ(写真的実在)といった美学的な概念を頻繁に用いた。この「リアリズム」もそのひとつで、当初のリアリズム写真は、社会的性格を強く持った前衛芸術の勧めというべきものだった。

 土門は51年12月号でアマチュアは社会生活の周囲からモチーフを見つけるべきで、そこからリアリズムをつかみだすには「絶対非演出」であるべきだと説いた。やがて社会性を強調する言葉が強くなり、若い世代のアマチュアや写真家志望者を感化した。

 土門を起用したのは、48年9月号から編集長を務めた桑原甲子雄である。桑原は今後の写真雑誌は社会と連動して機能するとみていたが、これは津村の方針とほとんど重なるものだった。

 一方の津村が掲げたキーワードが「シャッター以前」である。初出は本誌50年4月号の「編集室」欄で、あるレベル以上の写真家にとって「作品の主たる内容はシャッター以前の問題が大きな部分を占める」としている。では「以前」とは何か問うと「人間性の問題であり、同時に美に対する直観力であり、そういうものが養成されているかいないか」(同年10月号座談会「作画精神を語る」)だと答えている。

 リアリズムにしてもシャッター以前にしても、推進者たちは戦前から続くアマチュア写壇を批判することで自らをその上位に置いた。しかし写壇にはその批判を吸収したうえで実作として展開するものが少なかった。実力のあるリーダーをすでに欠いていたことが理由のひとつかもしれない。たとえば前回記したように安井仲治はすでに42年に、福原信三は復刊前年、中山岩太は復刊目前に没していた。

 もっとも、一般的なアマチュアのあり方も大きく変化している。団体単位ではなく個人での活躍が目立つようになり、雑誌メディアの影響力が直接作用するようになっていた。ほかならぬ本誌にしても、かつて本誌を支える基盤だった全日本写真連盟とは「戦後は殆ど関係がないようになった。つまり互いにそのよりどころではなくなって来た」(『全関西写壇五十年史』全日本写真連盟編)のだった。こうして、写真表現において、個人的主体性が重視される土壌が形成されていった。