中部アフリカの国々となると、また状況は一変する。ギニア湾沿岸諸国を除くと、道は険しい。この地域を通り抜けるルートもまた、サハラ同様、3つに絞られる。

 ひとつめは、チャド・スーダン間を結ぶ道だ。両国とも、サハラを国土に抱えている。チャドのほとんどは砂地だ。日本の3.4倍もの国土面積をもちながらも、舗装された区間の総延長はたった数百kmしかない。道といっても、深い砂に刻まれた轍(わだち)がまっすぐに伸びるばかりだ。西アフリカで見るような大型バスが走れる状況にはなく、車の往来は少ない。日向の気温は50度に迫ることもあり、人々は屋内や日陰で過ごしているため、首都も郊外の街も静まり返っている。

 2002年、チャド東端の街アドレで取材中にひと休みしていたところ、暑さで静まり返っていた街が、にわかに賑わい始めた。街の中心部に、様々な日用品をうず高く積んだトラックが到着。スーダンからの行商人がやってきたのだった。運転手の一人に話を聞くと、ここからはるか数千km離れた、紅海に面した港町のポートスーダンから、この荷とともにやって来たとのこと。決して実入りのいい商売とは言えないが、チャドに住む多くの人々が、彼らが運んでくる物資を必要としているためにこの仕事を続けていると話してくれた。トラックは全部で4台。過積載のトラックで砂地を走り続けるのは大変だが、互いに助け合いながら進むから問題はないという。ラクダにこそ乗っていないが、トラックでチームを組んで日用品を運ぶ彼らは、現代の隊商だと感じた。

 ふたつ目のルートは、中央アフリカ共和国・コンゴ民主共和国(旧ザイール)間を結ぶものだ。コンゴ民主共和国に入ると、草木が深く茂った熱帯雨林が続く。道は常にぬかるんでおり、轍は膝から腰の深さほどにまで掘り進められてしまっている。壁のように感じられるほどの急斜面も多い。車の往来は極めて少なく、道幅は自動車1台分の幅がぎりぎりある程度。文字通りの獣道が、密林から密林へと続く。

 ザイールの道程は、過酷だった。1995年にオートバイで旅した際、約1500kmの道のりを抜けるのに、16日間を要した。日の出から夕方まで走り通しても、1日進んだ距離は平均100kmにも満たない。平均時速は10km程度を強いられる、過酷な道程だった。

 ザイールでは、幾筋もの川を越えなければならない。川幅が大きいところでは、時にはボートで、時には丸太をくり抜いた船で川を越える。小さな川には橋がかかっているが、橋と言っても、切り倒した木々を数本束ねて渡しただけのものだ。柵も手すりもなく、足元に空いた大きな隙間からは、川面がはっきりと見える。そんな丸太の橋を、いくつも渡らなければならない。丸太の橋を渡るのにやっと慣れてきたころ、私は橋の途中でバランスを崩し、小川に転落した。
 たまたま、川底までは腰ほどの深さしかなく、橋からの落差も1メートルに満たないものだった。フイルムを濡らしてしまったこと以外にダメージを受けなかったのは幸いだったが、これが十数メートルの落差にかけられた丸太橋だったらと思うと、今でも身が縮み上がる。

 これほどの悪路でも、現地の人はあっけらかんとしたものだ。四苦八苦しながらザイールの泥道を進んでいると、真っ赤なトラックがぬかるみにはまって立ち往生しているのが見えてきた。荷台には、赤いケースに入ったコカコーラが満載。聞くと、今日はまだ4kmしか進めていないという。そこまでしてコーラを運ばなくても……と思ったが、それは余計なお世話というもの。中部アフリカの道はアフリカ屈指の悪路だが、これほどの悪路でも、人のいる限り物流が途絶えることはない。

 最後のルートは、ギニア湾沿岸の国々を結ぶものだ。前述の2つのルートはアフリカ大陸を東西に抜けるものだが、このルートでは海に沿って西から南へと弧を描くように、カメルーン、赤道ギニア、ガボン、コンゴ共和国を進む。私はこのルートを取ったことがないが、チャドやコンゴ民主共和国の道のりほどに過酷なルートではないはずだ。

 北部アフリカではサハラと向き合い続け、西部アフリカでは縦横無尽に疾走する高速バスに乗り、中部アフリカでは砂と密林が覆う悪路に悩まされた。道の表情は、地域によってかなり異なる。

 南アフリカでは高速道路を爆走する車に迫られ、タンザニアでは象に迫られた。次回、アフリカ道路事情編の第3回目、東部から南部にかけてもまた、これまでとは違った表情が見えてくる。

岩崎有一(いわさき・ゆういち)
1972年生まれ。大学在学中に、フランスから南アフリカまで陸路縦断の旅をした際、アフリカの多様さと懐の深さに感銘を受ける。卒業後、会社員を経てフリーランスに。2005年より武蔵大学社会学部メディア社会学科非常勤講師。

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