本書の最後に収録されている「十万年の西風」では、原発の下請け会社を辞めた男と海岸で凧を揚げる初老の男が出会い、戦時中に作られた風船爆弾のことが語られる。科学の闇を正面から捉えていながら、読後感は非常に爽やかだ。
「つらい気持ちになる小説は僕もあんまり読みたくないので(笑)。こういう見方で社会を見てみたら力抜けませんか? みたいなことを読者に感じてもらえればいいと思うんです。地球とか惑星の研究者は1万年前のことは最近って言いますからね。そういう人の視点をちょっと借りてみるというのは面白い体験だと思うんですよね」
時間も空間も膨大なスケールで見ながら生きている科学者の視点。伊与原さんの小説はその科学者の視点を日常の言葉に翻訳して見せてくれる。それは、このコロナで沈んだ世界できっとたくさんの人の心を明るくするに違いない。
(ライター・濱野奈美子)
■HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE 新井見枝香さんオススメの一冊
『とわの庭』は、前を向いて歩く、ひとりの美しい人間の物語。HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGEの新井見枝香さんは、同著の魅力を次のように寄せる。
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生まれつき目が見えない<とわ>は、母親と2人だけで暮らしている。季節は庭に植えた木の香りで、時間は庭にやってくる鳥たちの歌声で知った。大好きな本は、母さんに読んでもらえる。10歳の誕生日には、ケーキを焼いてくれた。とわは、大好きな母さんが必ず側にいてくれるから、目が見えないことなんて、何でもなかった。そのうち、母さんが外へ出掛けるようになり、やがて何日も帰って来ず、お腹がすいて、消しゴムをかじるほどになっても、とわは待っていた。
しかし、生きるためには、母さんがもう二度と帰ってこないことを、認めなければならない。やがてとわが外の世界へ踏み出すとき、ようやくとわの物語が動き始める。それは、目が見えない少女がひとりで生きていく美談ではない。前を向いて歩く、ひとりの美しい人間の物語だ。
※AERA 2020年12月28日-2021年1月4日合併号