3月16日より啓蟄の末候「菜虫化蝶(なむしちょうとなる)」となります。日中はぽかぽかと暖かくなる日も増え、サナギで冬越しした蝶たちが羽化する頃。中国宣明暦では、「鷹化為鳩(たかけしてはととなる)」で、ご存知変身シリーズ来たーっ!!といったところですが、いかめしい鷹が春の陽気にのどかな鳩(カッコウとも)に化身してしまう、という空想的な表現に対し、合理主義者の貞享暦編纂者・渋川春海は、「菜虫(青虫)が蝶に化身する」という実在する自然界の奇跡をあてはめました。チョウを含む完全変態昆虫の、幼虫からサナギを経て成虫に劇的な変化をする生態は、まさに化身という言葉そのものの不思議なふるまい。彼ら以外にこの地球上で、これほどの変身を遂げる生物は他にいません。
この記事の写真をすべて見る完全変態昆虫が「変態」する理由とは
「菜虫」とは、菜=大根や蕪菜、アブラナ、小松菜などの葉物野菜についてそれを食べるチョウやガなどの幼虫、つまり青虫のこと。「菜虫」が、春になって羽化して蝶になる頃、ということですが、ご存知の通り、青虫はいきなりチョウになるわけではなく、キャタピラーといわれる青虫状態からサナギのステージを経て、成虫になります。いったんサナギになってまったく違う姿の成虫になる昆虫を、完全変態昆虫といいます。地球上の昆虫類は分類上30目に区分されますが、このうちコウチュウ目、ハエ目、ハチ目、チョウ目など、9目が完全変態昆虫で、その種類は昆虫類の約8割にもなり、もっとも繁栄している昆虫類、といえます。中でもチョウは、
花を見よ
其は 大地に縛られし蝶なり
蝶を見よ
其は 天に解き放たれし花なり
(R・シュタイナー 「創造的言葉の交響楽としての人間」)
この詩篇に示唆されているように、チョウと花、サナギと蕾、青虫と葉、卵と種子とは鮮やかな対称性を持っています。植物は、葉を変容させて花に作り変えます。そして、植物の栄養摂取にあたる光合成の機能を失う代わりに、生殖器官である雄しべや雌しべ、受粉のための美しい花弁などを現出させます。花は、風や虫・鳥・獣などを利用し、子孫である種子を広範囲に拡散させる間接的な機動力も持っています。それとまったく同様に、完全変態昆虫も、幼虫期にはひたすら栄養を摂取して大きくなることに専心し、蛹を経た成虫では、食べることよりも強力な機動力を得て活動範囲を広げ、生殖に主に専心するという点でも、植物のふるまいにそっくりです。この二段階の変身システムは、個体成長と種の拡散という、生物にとって大切な二つのミッションを完全に切り分けることによって種の繁栄にメリットを獲得しようとした結果である、と推測されています。
ですが、完全変態昆虫がもっとも不利なのは、一定期間全く動くことが出来ない「サナギ」という段階をもつこと。このときに捕食されれば、逃げることも抵抗することも出来ません。一見、カマキリやバッタ、シロアリやゴキブリなどの蛹期間を持たず、幼虫のうちから成虫のミニ型で脱皮を繰り返して大きくなる多新翅類(直翅系昆虫)のほうがすぐれた適応性を持ち、有利であるように思われます。そして実際サナギ期間が絶対的に不利であることは、集団生活を営むアリやハチなどでは、幼虫・サナギを成虫が囲い込んで保護する戦略をとっていることからも明らかです。そして、不完全変態昆虫であるバッタやセミ、トンボなどが大繁栄していることも事実です。
こうしたことから、今も「なぜ完全変態昆虫は完全変態という戦略をとったのか」については明確な答えは出ていません。
すべてがドロドロってホント?驚くべきサナギの中身は
幼虫が最終齢のあと蛹化し、体を固定して動かなくなると、サナギの中では幼虫時の体が全て解体され、一旦ドロドロに溶けて何もなくなってしまう、とよく言われます。あまりにもとっびで衝撃的なのでたびたび薀蓄話で語られることですが、果たして本当なのでしょうか。
実際に、幼虫自身が出す酵素で体の大部分の組織が液状になることは事実ですが、決して全てではありません。神経は残っていますし、呼吸器官などのいくつかの組織はサナギの最初期から(幼虫期間の最終段階から)準備されていてそのまま残っています。どろどろに溶けたたんぱく質のスープの中には、成虫の体を形成する成虫原基が混ざっていて、これが触覚や足、羽などのパーツを形作って行きます。これらのパーツは、何と幼虫時代と成虫とでは、幼虫の体幹中心部分にあった組織が成虫の足や羽となり、一方幼虫の外側についていた脚などの組織が成虫の内部組織になるという反転現象を起こすのです。つまり内側が外に、外側が内側に、というリバーシブルによって大変身を遂げるのです。
すべてがドロドロになってしまう、というのはうそと言うか大げさな表現ですが、それでも人間で例えるならば、いくつかの内臓組織や神経を残して、目も耳も筋肉も骨もいったんすべてが溶けてなくなってしまう、ということですから、すさまじい大変身、死して転生する生まれ変わりにも匹敵するすごいことであるのはたしかです。
チョウの成虫のことをIMAGOと言いますが、これは英語のimage=イメージ、つまり画像、心象、印象、想像、夢という意味でもあります。まさにチョウとは、半ばこの世ならぬ存在として、サナギという棺おけから抜け出た魂の表象としても捉えられてきたのです。
これほどの大変態をとげる動物は、完全変態昆虫以外には地球上には存在せず、しかも進化過程の移行生物の痕跡(ミッシングリンク)が存在せず、3億5千万年前に突如登場したわけですから、生物進化論上の最大のなぞの一つといわれるのも無理からぬことでしょう。
操作系幼虫?ムラサキシジミの特殊能力
さて、現代ではもっとも一般的な「菜虫」はモンシロチョウ(紋白蝶 Pieris rapae)ですが、モンシロチョウが日本列島で大繁栄をしはじめたのは戦後になってから。それ以前は在来種のスジグロシロチョウ(筋黒白蝶 Pieris melete)が一般的なシロチョウであり、その幼虫がありふれた「菜虫」でした。スジグロシロチョウは幼虫越冬で、暖かくなり始めると大根やカブなどの葉を食べて蛹化し、チョウとなりました。シジミチョウの一種で、全国でよく見られるルリシジミ(瑠璃小灰蝶 Celastrina argiolus )の幼虫も「菜虫」の一種。渋川春海が想定していた菜虫は、あるいはルリシジミのことかもしれません。
シジミチョウはごく身近にいてありふれたチョウですが、生態がよくわかっていないことが多く、つい近年でも、ムラサキシジミの幼虫の特殊能力が知られることとなりました。幼虫が伸縮突起から分泌する特殊な蜜でアリを誘引、報酬を与えることで他の捕食生物から身を守る共生関係があることが知られていましたが、蜜を与えるだけでは、アリは蜜だけもらい、すぐに立ち去ってしまうので用心棒にはなりえません。ところがこの蜜には脳内物質ドーパミンを抑制し、アリが一種の催眠状態になって歩行が鈍くなる物質が含まれていて、このため、アリはムラサキシジミの幼虫のそばに長くとどまることがわかったのです。
機動力や攻撃力・防御力の弱い幼虫~蛹期にいかにして身を守り生き残るか。完全変態昆虫が一見大きなリスクがあるように見えて大繁栄している理由には、こうしたまだまだ知られていない特殊能力の駆使があるのかもしれません。
いかにして青虫が蝶になるか3Dスキャン
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