撮影/写真映像部・上田泰世
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 競技生活を終えてなお、アスリートならではの挑戦を続け、まだ見ぬ高みへと歩を進める羽生結弦。その心の内には常に、被災者や被災地への強い思いがある。プロ転向から4年目を迎えた今、羽生がアイスショー「notte stellata」に込めてきたものをあらためて振り返る。

【美麗フォト】様々な表情をAERAで見せてきた羽生結弦さん

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 宮城県仙台市に生まれ育った羽生結弦は、今なお消えることのない体験を抱える。

 2011年3月11日に発生した東日本大震災は、当時、練習でアイスリンク仙台にいた羽生を襲った。

 避難生活を味わい、練習拠点を失う苦難に見舞われながら、乗り越えて栄光をつかんでいった。その中では被災したフィギュアスケーターであることが国内外でクローズアップされることにもなった。

 それに葛藤がまったくなかったとは言わない。でも羽生はそれを受け止め、むしろ機会があれば、被災者や被災地に思いを寄せた言葉を発してきた。

 プロフィギュアスケーターになったことで、可能になった活動もある。アイスショー「notte stellata」である。

3月11日だからこそ

「被災地から希望を発信」することを掲げるこのアイスショーの初演は、宮城県利府町のセキスイハイムスーパーアリーナで23年3月10日から12日にかけて行われた。競技選手時代であれば大会のスケジュール上、実施が困難な時期である3月のこの時期に公演を打てたのは、プロになったからこそであった。

 公演を前に、思いをこう語っている。

「今まで3月11日ってコメントを出すことぐらいしかできなくて。自分の演技を届けたいと思っていても、なかなか演技する機会だったり、みなさんの前でなにかを届けられる機会をつくるのが難しかったです」

「大切な日に演技するということがやっとできるなという気持ちもありますし、3月11日じゃないと届けられない気持ちだったり、3月11日だからこそ思っていただける気持ちだったりとか、受け取り方だったりとか、いろんなことがあると思います。大切に、大切に、演技していきたいなって思います」

 国内外からのスケーターが出演し、ゲストも参加しての公演の中で、羽生は演技を、あるいはマイクを持って言葉を通じて、被災地や被災者への思いを率直に、真摯に伝えた。

 それを受け止めたのは、観客席の人々ばかりではなかった。配信やライブビューイングが実施されたのだ。しかもライブビューイングは国内にとどまらず海外でも実施された。

 多くの人に公演の模様が届けられたことにも、実は意味があった。

 2011年から10年あまりが過ぎ、どうしても記憶が薄れつつある感があったのは否めない。その中で公演を行い、多くの人が目にすることで、あらためて震災があった事実を思い、記憶していく契機となったのだ。

 それは同時に、被災地や被災者を忘れないことを意味し、寄り添うことにもなる。公演を行い、そして羽生がメッセージをおくる意義がそこにあった。

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