
「素材じゃない」表現で生まれたもの
――矢口さんはスケートだけでなく、スタジオでも羽生さんを撮影されています。プロになられてから表現の幅や引き出しがより増えている印象がありますが、フォトグラファーの視点にはどう映っていますか。
個人的には、柔らかくて優しい表情が増えたように感じています。最初にスタジオで撮ったのは23年12月。報知新聞社から出版した『写真集 羽生結弦』のために、ポートレート撮影の時間を20分いただきました。
そのときの写真が僕はすごく好きで。羽生選手の表情が鋭くて強いんですよ。羽生選手自身の気持ちだったり、人間性みたいなものが出ていたなと感じています。
――撮影時はどういう気持ちで向き合っていたんですか。
撮影の前に羽生選手から「どういう写真がいいの?」と聞かれたんです。確かそのときは、「素材じゃない羽生くんをお願いします」って返したと思います。
――素材じゃないとは。
当時インタビューか何かで、羽生選手が自分のことを素材というふうに表現していたんです。だから僕は素材じゃない羽生くんを撮ってみたいなと思って、そう伝えました。
――「素材じゃない」表現で生まれたのが写真集にも収録されているカットなんですね。
羽生選手から「じゃあ素を見せればいいの?」って返ってきて、そのあとに出てきた表情なんです。羽生選手を撮影していると、ちっちゃい虎と対峙してるみたいな感覚になるんですよ。
スタジオの方からも、「矢口さんと羽生さんの現場は格闘技みたいですね」と言われたことがあります。羽生選手も自由に動くし、「撮れるでしょ」と挑まれている感じもあって、確かに戦っているような気持ちがありました。
でも、今はちょっと違いますね。今年4月にも撮影させていただきましたが、スタイリストさんと会話したり、自然に笑ったり。彼自身も撮影の現場を楽しんでくれているのかな、と感じる瞬間が増えました。
――羽生さん自身もスタジオでの撮影の感覚をつかんできたということでしょうか。
たぶん、一緒に仕事をしている仲間だっていう意識がより強くなっているんだと思います。撮影だけでなく、アイスショーなどでもいろんなクリエーターの方と関わると思うので、そのなかで生まれた変化なのかもしれません。
でも、僕が接していなかっただけで、そうした意識や興味というのはもともと羽生選手自身が持っていたものだとも思います。