今から、37年前、1977年の夏、わたしは、ロンドンのウォータールー駅から列車で30分のところにあるテムズ川のほとり、ウェイブリッジで、初めての海外暮らしを経験していた。
わたしの年は20歳。53歳の独り暮らしのミセス・ミラーの家にホームステイしていた。
同じくスペインから夏休みを過ごしに来ていた17歳の男の子エドワルドと3人暮らしの1か月だった。
エドワルドは、いっしょに来ている仲間が大勢いて、その中の兄貴分だった。毎日のように高校生から小学生までの男女が、彼を訪ねてくる。
特に、日曜日は、カトリックの教会に行くのだと誘いに来た。
エドワルドとわたしは、すぐに仲よしになり、日曜の教会に行くときも誘われるようになった。わたしは、カトリックじゃないよ、といっても、かまわないよ、行こうぜ!ってな感じで、連れられて、教会に行った。礼拝もいっしょに受けたりした。彼らは、ひざまずきながら、机の下で、ふざけていた。
礼拝が終わると、教会の前に集まった。集まって小学生や中学生が煙草を吸っている。
「煙草なんか吸っていいのか?」
というと、
「いいんだよ」
などと言っているが、注意しそうな大人が近づいてくると、慌てて消したりしていた。
そのうち、だいたいいつもそうなのだが、近くのパブにいく。大人たちは、といっても、17歳含むわたしたちだが、ビールをハーフ・パイント頼む。パイントとは、量の単位だが、中ジョッキくらいだろうか。
ロンドンのビールといえば、基本はエール・ビールで、日本ではラガー・ビールしか飲んだことがなかったので新鮮だった。ギネスもロンドンで覚えた。ビールとジンジャー・エールを合わせた「シャンディ」やりんごの発泡酒「シードル」なども、日本では見たこともなかったが、なかなかにおいしいものだった。
そのうちにお酒が回ってくると、音楽に合わせて、フラメンコを踊りだす。異国の少年少女のフラメンコを、わたしはまぶしいものを見るように見、そして、いっしょに踊った。
ひと踊りすると、再び、おしゃべりになるのだが、そのうち、政治の話になった。フランコがどうとかカストロがどうとか言っている。小学生もいっしょになって、カストロが好きか嫌いか、熱く議論している。わたしたち、日本人は海外では、政治と宗教は、話題にするなと教えられていた。 というわけでもないが、
「カズミは、カストロをどう思う?」
などと言われて、語れる知識も語学力もない。それより、日本では、一般の子供たちが、街角で政治や宗教について語るなどという姿を見たことがなかったので、新鮮であると同時に、置かれている各国の背景の違いに驚いたものだ。 といっても高校生のエドワルドは、将来の進路について悩んでいて、
「カズミは、大学でなにを専攻しているのだ?」
と聞いたりした。
「法律だよ」
というと、
「弁護士になるのか?」
と聞かれた。
「いや、小説家になりたいんだ」
とわたしは言った。そのころは、小説家になることしか頭にない若者だった。
「エディーは、なにになりたい?」
「ぼくも、法律を勉強して、弁護士にでもなろうかな」
そんなことを話しながら、わたしたちのひと夏のロンドン暮らしは終わった。
今から10年くらい前になるだろうか、わたしももうすぐ50歳になろうという頃、妻と二人でマドリッドへ旅行をした。
そこで、30数年ぶりにエドワルドと再会した。
あの夏以来、毎年、クリスマス・カードの交換を欠かしたことがなかったので、すぐに連絡は取れた。
エドワルドは、弁護士になっていた。奥さんは、経済紙の記者。男の子が3人いた。
われわれは、バスク地方の料理を食べながら、仕事や自分たちのこれまで人生について話したりした。
キューバの話、なかなか始まらなくて、ごめんなさい。
まだ、カストロが出てきただけだな。
『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』は、97年にライ・クーダーが、キューバのベテラン・ミュージシャンたちと作ったアルバムだ。99年には、ヴィム・ヴェンダース監督による同題名の音楽ドキュメンタリー映画も作られている。
わたしは、世界各国の音楽が好きで、機会あるごとに聴くようにしている。
スペインのフラメンコもポルトガルのファドも、好きだ。
そして、このCDがでて、キューバの音楽にも触れる機会ができた。
ライは、さまざまなルーツ・ミュージックを教えてくれる。彼に感謝しながら、キューバの夜を、楽しみに行こう。[次回7/17(水)更新予定]
■公演情報は、こちら
http://www.billboard-live.com/pg/shop/show/index.php?mode=detail1&event=8562&shop=1