ギル・エヴァンス『ライヴ・アット・スイート・ベイジル』
ギル・エヴァンス『ライヴ・アット・スイート・ベイジル』
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●「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ」が夕張に来た!

 北海道にいたころ、ジャズ雑誌を見てはため息をついたものです。 「ああ、こんなに日本にアーティストが来るのに、どうしてぼくの街には来ないのだろう。札幌以外の場所にもジャズ・ファンはいるのに。日本のアーティストだってめったに来ないし」。

 それだけに年1回程度でも、近所にジャズ・ミュージシャンがやってくると、私の心はときめいたものでした。84年にはなぜか、当時日本最大のジャズ系イベントである「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ」が北海道に進出しています。場所は夕張市の「石炭の村」という広場だったと思います。夕張は長らく北海道一の炭鉱都市だったのですが、82年だったかに落盤事故がおき、その後は閉山に追い込まれていました。夕張は「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ」を誘致することで、少しでも街を活気づかせようとしたのでしょう。

●ハイラム・ブロックが通路をゆっくり歩きながら…

 私の実家から夕張までは車で片道6時間はかかります。なのですが、これを見逃したら一生後悔するであろうことは明らかでした。家族、親せきが2台の車に分乗し、旭川を出たのは早朝だったと記憶しています。夕張はカンカン照りだったことを覚えています。

 開演が大幅に遅れ、広場内にダルなムードが漂い始めたころ、ギル・エヴァンス・オーケストラ+ジャコ・パストリアスが登場しました。東京公演は悲惨なものだったとか、ジャコが異常をきたしていたとか、あとでいろんな話をききましたが、当時の私は、そんなことをまるで知らないいたいけな少年でした。ただただギルやジャコをライヴで聴ける、それだけで嬉しかったのです。

 夕張で演奏したギル+ジャコの音源は今のところ出回っていませんし、私も録音していないので30年近く前のあいまいな記憶に頼るしかないのですが、演奏は東京公演(後日、FMのエア・チェック音源を聴きました)より、まとまっていたように思います。《ハニーマン》という曲でハイラム・ブロックが通路をゆっくり歩きながら演奏し、他の曲…たしか《ストーン・フリー》でした…では、ジャコとマーク・イーガンが、背中をくっつけあいながらベース・バトルを繰り広げました。ラストはジャコの当時の新曲といっていいでしょう、早い4ビートの《ダニア》でした。

 この日はほかにブラック・ウフル+スライ&ロビー、ハービー・ハンコックのロックイット・バンドも登場しましたが、私がいちばん鮮烈に覚えているのは、やはりギル・オーケストラ+ジャコのパフォーマンスです。

●“音の魔術師”との距離が近づいた

 家に戻った私は、俄然ギルのアルバムが欲しくなりました。が、84年当時、彼の吹き込みが北海道で入手できる機会は皆無といっていいものでした(マイルス・デイヴィスとのコラボレーションは別として)。そもそもギル自身のニュー・レコーディングがおこなわれていなかった、という事情があります。しかし翌85年、ニューヨークでのライヴ盤が日本のキング・レコードから登場します。ジャコこそいませんでしたが、メンバーは来日公演とほぼ同じ、演奏曲も重複していました。レコード(確か2枚組で3800円でした)を買った私はしばらくの間、夕張で見たギル・オーケストラの姿を重ね合わせながら、しこたまアルバムを聴きこみました。

 今となってはこの『ライヴ・アット・スイート・ベイジル』、いかにも荒削りでギル独自の繊細さ、妖しさが足りないのではないかとも思いますし、同じライヴ盤なら80年の『ライヴ・アット・パブリック・シアター』のほうが二枚も三枚も上である、と断言できます。が、『~スイート・ベイジル』は、私とギルの距離をさらに近づけてくれました。そして「こんな演奏が週一で、しかもジャズ・クラブで聴けるニューヨークはなんてすごいところなんだ」という印象を、強く深く植えつけてくれたのです。

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