商店や飲食店が軒を連ねる杉田終点風景。画面の左端にはいすゞ・ベレットGT 、右端にはトヨタ・パブリカ800と、1960年代の懐かしいクルマが横須賀街道を行き来する。(撮影/諸河久:1967年7月16日)
商店や飲食店が軒を連ねる杉田終点風景。画面の左端にはいすゞ・ベレットGT 、右端にはトヨタ・パブリカ800と、1960年代の懐かしいクルマが横須賀街道を行き来する。(撮影/諸河久:1967年7月16日)

 山元町界隈のランドマークである打越橋は、横浜市の震災復興事業で1928年に架橋されている。全長約38.37m、全高12.47mの鋼製ランガー構造の道路橋で、横浜市土木局の設計で横浜船渠が施工している。撮影から半世紀を経た現在も健在なのが嬉しい。

 3系統に充当されていた1300型はワンマン化改造を免れ、最後まで車掌が乗務していた。1971年3月の長者町線などの路線廃止時に廃車され、横浜市電から車掌の肉声が途絶えた。

往年は海水浴客で賑わった夏の磯子線

 写真が磯子線(吉野町三丁目~杉田/6600m)の終点杉田停留所で発車を待つ8系統葦名橋行きの市電。杉田終点の近隣には個人商店や飲食店が林立し、市電の乗降客と商店が一体となった生活感溢れる風情を醸成していた。訪問日は「土用の丑の日」には早かったが、鰻屋からただよってくる鰻香とじりじり照り付ける太陽に「夏」を実感した記憶がある。

6・8系統にワンマンカーが導入されると、乗務員の手間を省くため、6-8や8-6の複合系統板が掲示された。写真の6-8系統では、6系統を先に走って8系統で戻ることになる。桜木町駅前(撮影/諸河久:1972年3月5日)
6・8系統にワンマンカーが導入されると、乗務員の手間を省くため、6-8や8-6の複合系統板が掲示された。写真の6-8系統では、6系統を先に走って8系統で戻ることになる。桜木町駅前(撮影/諸河久:1972年3月5日)

 往年の磯子線は、沿線の屏風ケ浦一帯に海水浴場を持つ風光明媚な路線で、夏は多くの海水浴客が利用した。八幡橋から杉田を走る市電の車窓には磯の香が漂い、海辺の景観も楽しめた。

 1960年代に入ると、石油コンビナート造成による埋め立て工事が始まり、沿線の風情は大変貌を遂げた。埋立地に敷設された並行路線である国鉄根岸線が開通すると、杉田に通う軌道は使命を終えることとなり、葦名橋~杉田3600mが1967年8月に廃止された。

8系統は異色の変則循環系統

 杉田から葦名橋の行き先を出して発車する8系統は異色の変則循環系統だった。杉田を発車して、葦名橋~睦橋~花園橋~日本大通県庁前を経て桜木町駅前に到着。桜木町駅前で系統板を6系統に替えて、日出町一丁目~初音町~睦橋を経て葦名橋に終着する行路で、運転距離は15843mに及んだ。

 葦名橋~杉田が廃止されると、6・8系統は葦名橋~桜木町~葦名橋の循環運転に変更されている。1970年7月にワンマン運転が導入されると、系統板の取り替え作業を省くため、写真のような6-8の2系統複合系統板と桜木町駅・葦名橋循環の行先幕を掲示するようになり、市電が全廃された1972年3月31日まで走り続けた。

■撮影:1969年8月17日

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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