佃島渡船場跡の近景。隅田川の堤防は嵩上げされ、渡船乗り場の跡地には「佃まちかど展示館」が建設された。展示館の右側に移築された「佃島渡船」の石碑が見える。(撮影/諸河久:2021年2月7日)
佃島渡船場跡の近景。隅田川の堤防は嵩上げされ、渡船乗り場の跡地には「佃まちかど展示館」が建設された。展示館の右側に移築された「佃島渡船」の石碑が見える。(撮影/諸河久:2021年2月7日)

 次のカットが渡船廃止から57年を経た佃島渡船場跡の近景。正面の建物は「佃まちかど展示館」で、館内には千貫神輿や中央区有形文化財の龍虎と二対の獅子頭が展示されている。画面右側のカーブミラーの左隣には、旧景左隅に写っている「佃島渡船」の石碑が移築保存されている。また、手前の広場では江戸期から踊り継がれた東京都指定無形民俗文化財「佃島の盆踊り(念仏踊り)」が毎年7月に開催されている。

変貌を遂げた新佃島停留所と初見橋界隈

 佃島渡船場を東南に歩くと、佃川支流に架かる佃小橋が見えてくる。ここまでが江戸期の佃島で、佃小橋を渡った先が明治期に埋め立てられた新佃島になる。徒歩で左から右にクランクすると佃大通りに出る。まっすぐに数分進むと都電月島線が走る清澄通りに行き当たり、清澄通りの左右に新佃島停留所の安全地帯が見えてくる。
 

新佃島停留所で乗降扱中の23系統月島行きの都電。画面左側に折返し分岐器があり、11系統新宿駅前行きや臨時9系統渋谷駅前行きが発着していた。(撮影/諸河久:1965年10月28日)
新佃島停留所で乗降扱中の23系統月島行きの都電。画面左側に折返し分岐器があり、11系統新宿駅前行きや臨時9系統渋谷駅前行きが発着していた。(撮影/諸河久:1965年10月28日)

 次のカットが、新佃島停留所に停車する23系統月島行きの都電。23系統はこの先二つ目の月島(旧称月島通八丁目)が終点だ。停留所で都電を待つ乗客は、ここで折り返す11系統新宿駅前行きの到着を待っているのだろう。新佃島停留所は11系統や23系統の他、朝夕のラッシュ時には臨時9系統渋谷駅前行きや臨時30系統東向島三丁目(旧称寺島町二丁目)行きの二系統も加わり、賑いを見せていた。

佃大橋架橋時に埋め立てられた佃川の初見橋跡を走る23系統福神橋行きの都電。右側に佃大橋の終端道路と左側に佃島説教所の寺院が見える。月島通三丁目~新佃島(撮影/栗原秀行:1970年11月29日)
佃大橋架橋時に埋め立てられた佃川の初見橋跡を走る23系統福神橋行きの都電。右側に佃大橋の終端道路と左側に佃島説教所の寺院が見える。月島通三丁目~新佃島(撮影/栗原秀行:1970年11月29日)

 次が新佃島と月島通三丁目の間に所在した旧初見橋の交差点を行く23系統福神橋行きの都電。画面の右奥には月島通一丁目、月島西仲通一丁目(現・月島一丁目)の家並が展開した。以前はこの地点に隅田川と朝潮運河を結ぶ佃川が流れており、佃大橋架橋時に埋め立てられた。佃川には隅田川寄りから佃橋、新月橋、初見橋が架けられていた。画面右奥の佃大橋への乗降道路の終端が旧新月橋跡で、道路の左側には浄土真宗本願寺派佃島説教所が写っている。この寺院は佃島の人々の浄財によって建立され、建直しのため先年解体されるまで、当地のランドマークの一つだった。

初見橋交差点の現景。頭上に新富晴海線の新月陸橋が架橋されて、往時の面影は皆無となった。(撮影/諸河久:2021年3月4日)
初見橋交差点の現景。頭上に新富晴海線の新月陸橋が架橋されて、往時の面影は皆無となった。(撮影/諸河久:2021年3月4日)

 最後のカットが初見河岸の近景で、佃大橋から延伸された都道新富晴海線の新月陸橋が頭上を覆っていた。右奥に見える佃大橋終端部は、旧新月橋跡の地点で地平に降りている。

 月島地区から都電の姿が消えたのは1972年11月だった。都電が走った清澄通りは拡幅されて清楚な街並みに変貌していた。都電や佃島渡船の乗客で賑わった生活感に溢れる半世紀前の風情が懐かしい。

■撮影:1964年8月24日

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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