隅田川を横断して、対岸の佃島渡船場に向かう佃島渡船。二艘目が無動力の客船で、後部に総舵手が乗り組んでいた。背景の佃島右側奥に銭湯(日の出湯)の煙突が見える。(撮影/諸河久:1964年8月24日)
隅田川を横断して、対岸の佃島渡船場に向かう佃島渡船。二艘目が無動力の客船で、後部に総舵手が乗り組んでいた。背景の佃島右側奥に銭湯(日の出湯)の煙突が見える。(撮影/諸河久:1964年8月24日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、隅田川最後の渡し船となった「佃島渡船」(つくだじまわたしぶね)と月島の都電を回顧した。

【渡し船の船内の様子は? 知られざる当時の貴重な写真はこちら】

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 幸いなことに長く続いているこの連載。ネット世代の若い人たちに、かつての東京の光景を知っていただきたくスタートしたが、皆さんからいただく反応を見ていると、ご年配と思しき方のコメントも多い。往時を振り返っていただくのは、この上なく嬉しいことだ。

 そんな読者の皆さんの中に、隅田川の渡し船に実際に乗ったことがあるという人は、どれくらいいるだろうか。

 筆者の少年時代は、地下鉄網が未発達だった。それゆえ居住する新富町(現・新富)から月島方面への交通手段は、都電で勝鬨橋や永代橋を渡るコースの他に、徒歩で隅田川畔の湊町(現・湊)に赴き、佃の渡しとして知られた「佃島渡船」に乗船して対岸の佃島経由で月島に行くコースが選択できた。

 新富町から都電を使う場合は、勝鬨橋、永代橋のいずれの経由も乗換を必要としたため、年少者には料金が無料の佃島渡船は魅力的な存在だった。歩行者ばかりではなく、自転車利用者の乗船も可能で、晴海、豊洲、東雲方面への遠出に佃島渡船は必須の交通機関だった。

 冒頭の写真を見ていただきたい。

 湊町渡船場から佃島に向けて隅田川を横断する佃島渡船だ。曳船は石炭炊きの蒸気動力で、煙突には東京都の都章が掲げられていた。無動力の客船の後方に操舵手が乗務した。佃島渡船場は画面右側に位置し、背景には戦災を免れた佃島の家並と住吉神社の鳥居が写っている。

 佃島渡船場から少し東に位置する清澄通りには、都電月島線の新佃島停留所が所在し、ここからは門前仲町や押上方面を結ぶ23系統(福神橋~月島)が頻繁に運転されていた。

佃大橋の架橋で消えた佃島渡船

 次のカットは乗船客で賑わう佃渡船の船内の一コマ。客室への出入口は四か所あり、座席定員24名のボックスシートを配置していた。客室妻面に非常用の救命胴衣が収納されていた。対岸まで10分程度の乗船だから客室に暖房装置はなく、冬季には扉を閉めて寒風を防いだ。夏季は蒸し暑い船室には入らず、デッキに乗船して涼をとっていた。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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