上野公園停留所から撮影した「池之端の専用軌道」を走る20系統須田町行きの都電。画面右側は旅館街の裏手にあたり、画面左奥に上野の杜が見える。上野動物園前~上野公園(撮影/諸河久:1963年5月12日)
上野公園停留所から撮影した「池之端の専用軌道」を走る20系統須田町行きの都電。画面右側は旅館街の裏手にあたり、画面左奥に上野の杜が見える。上野動物園前~上野公園(撮影/諸河久:1963年5月12日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。2年前の連載で上野不忍池の弁天堂を取り上げたが、今回は不忍池の池畔を走った通称「池之端の専用軌道」を辿ってみた。

【いまの同じ場所は激変!? 現在の光景や当時の貴重な写真はこちら(計9枚)】

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「花は上野か向島…」

 歌の文句ではないが、今年も桜花の時節が巡ってきた。桜花が満開になり、観桜を謳歌したい気持ちに水を差すのがコロナ禍による自粛だ。花の名所上野公園の花見宴会も自粛の対象になり、立ち入り規制工事が始まった。今年も我慢するしかないが、災厄が解けて桜花爛漫の下で一献交わす日々が戻ることを祈っている。

四季折々の風情が楽しめた不忍池畔の専用軌道

 冒頭の写真は「池之端の専用軌道」を走り終え、上野公園停留所に接近する20系統須田町行きの都電を上野公園停留所から写した一コマ。この上野公園停留所は、中央通りから左に分岐して不忍通りに入り、すぐに右折したところに所在し、20・37・40系統の乗降に使われた。いっぽう、中央通りに所在した上野公園停留所は上野四丁目交差点の北側にあり、こちらは1・24・30系統が使用していた。

 上野公園から上野動物園前を経て池之端七軒町までの1120mが「池之端の専用軌道」と通称で呼ばれていた。上野の杜と不忍池に挟まれたこの路線は、繁華な上野広小路の近隣とは思えない閑静な雰囲気と木々の緑に溢れ、車窓から四季折々の風情が楽しめた。
 

上野公園停留所の近景。停留所の跡も判別できぬほど変貌していた。左奥の建物が下町風俗資料館。(撮影/諸河久:2021年3月4日)
上野公園停留所の近景。停留所の跡も判別できぬほど変貌していた。左奥の建物が下町風俗資料館。(撮影/諸河久:2021年3月4日)
不忍通りに面した上野公園停留所で発車を待つ101系統今井行きのトロリーバス。1950年代にデザインされた風貌が懐かしい。(撮影/諸河久:1965年11月7日)
不忍通りに面した上野公園停留所で発車を待つ101系統今井行きのトロリーバス。1950年代にデザインされた風貌が懐かしい。(撮影/諸河久:1965年11月7日)

 上野公園停留所跡地の近景も見てみよう。右手前の自転車置き場の辺りが停留所跡になる。左奥の建物が「下町風俗資料館」で、現在はコロナ禍の影響で臨時休館していた。

 次のトロリーバスのカットは、都電上野公園停留所の西側で折り返していたトロリーバス101系統が発車を待つシーンだ。この101系統は上野公園と今井を結んでおり、1960年代の江戸川区民には必須の公共交通機関だった。不忍池の南端に位置する上野公園停留所周辺は路面交通の要衝だったといえよう。
 

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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モノレールと都電が交差