国鉄越中島貨物線の下をアップダウンする光景が「南砂町の専用軌道」の見どころだった。南砂町一丁目~南砂町三丁目(撮影/諸河久:1965年12月9日)
国鉄越中島貨物線の下をアップダウンする光景が「南砂町の専用軌道」の見どころだった。南砂町一丁目~南砂町三丁目(撮影/諸河久:1965年12月9日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は城東電気軌道から引き継いだ通称「南砂町の専用軌道」を走る都電を回顧しよう。

【56年が経過した今の同じ場所はどうなった? 貴重な当時の写真などはこちら(計6枚)】

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 場所は、東京都江東区周辺。現在はJR総武本線、京葉線や都営新宿線、東京メトロ東西線など路線が走り、都心部へのアクセスも便利な地域だ。これらの路線は主に東西に延びているが、かつて城東電気軌道(以下城東電軌)から引継いだ都電には、東西だけでなく南北にも走る路線が存在した。今回はそのハイライトといえる「南砂町の専用軌道」と呼ばれた工場地帯を走る都電の情景を紹介しよう。

■国鉄越中島貨物線をくぐり抜ける都電

 城東電軌は小松川線、一之江線、砂町線を保有し、1942年の交通統制で都電に編入された後も、江東地区の公共交通機関として重用された。その沿線には小松川線の中川専用橋や砂町線竪川の太鼓橋など多くの見どころがあった。その白眉といえるのが、砂町線の南砂町三丁目~南砂町四丁目に敷設された専用軌道で、愛好者から「南砂町の専用軌道」と呼ばれていた。
 
 錦糸堀方面から38系統日本橋行きの都電に乗車。明治通りに敷設された砂町線を南下すると、終戦後の焼け野原に建てられた「砂町キネマ」映画館を右に見て境川停留所に停車する。ここで29系統葛西橋行きは交差する清洲橋通りに左折するが、38系統は明治通りを直進する。その先の仙台堀川を渡り右にカーブを切ると、専用軌道が始まる南砂町三丁目停留所に到着する。ここから南砂町四丁目まで約980mの区間が、件の「南砂町の専用軌道」だ。

 冒頭の写真は南砂町三丁目の停留所から写した南砂町一丁目方向の情景で、国鉄(現・JR)越中島貨物線をくぐり抜けた38系統錦糸堀車庫前行きの都電が南砂町三丁目停留所に近接するシーンだ。方向幕に「砂町錦糸堀」と表示されているのは、日本橋~東陽公園前で28系統(錦糸町駅前~都庁前)と重複して走るため、誤乗を防ぐ処置だった。また、この路線には日祭日を除いた朝夕三本の臨時29系統が葛西橋~日本橋に運転されていた。

旧景から56年を経て訪れた南砂町三丁目の停留所跡。都電廃止後設置された「南砂緑道公園」に植樹された桜並木は太い幹をたたえ、桜花満開の時節には再訪したくなった。(撮影/諸河久:2021年2月5日)
旧景から56年を経て訪れた南砂町三丁目の停留所跡。都電廃止後設置された「南砂緑道公園」に植樹された桜並木は太い幹をたたえ、桜花満開の時節には再訪したくなった。(撮影/諸河久:2021年2月5日)

 次のカットが撮影から56年が経過した近景で、都電の軌道敷跡は「南砂緑道公園」に転用され、桜並木のプロムナードに変貌している。1924年に砂町線が南砂町三丁目まで延伸された当初の停留所名は疝気稲荷(せんきいなり)で、近隣に所在する疝気稲荷神社にあやかった名称だった。後年、疝気稲荷→稲荷前→南砂町→南砂町三丁目→南砂三丁目に改称されている。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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国鉄貨物列車との「共演」