拡幅された三条通りの併用軌道を走り去る四条大宮行きの嵐電。余談であるが、この撮影地の左側(北側)に島津製作所本社が所在し、ノーベル化学賞受賞者の田中耕一氏もかつては嵐電通勤者だった、というエピソードが残っている。山ノ内~三条口(現・西大路三条)(撮影/諸河久 1975年11月22日)
拡幅された三条通りの併用軌道を走り去る四条大宮行きの嵐電。余談であるが、この撮影地の左側(北側)に島津製作所本社が所在し、ノーベル化学賞受賞者の田中耕一氏もかつては嵐電通勤者だった、というエピソードが残っている。山ノ内~三条口(現・西大路三条)(撮影/諸河久 1975年11月22日)

 嵐電は創業以来トロリーホイール式のポール集電を堅持した路面電車として有名だった。ポール集電の電車が全国的に知られたのは、1963年公開の東宝映画「天国と地獄」(黒澤明監督・三船敏郎主演)だった。作品中、犯人からの電話の中に漏れ聞こえるトロリーホイールの音で、発信先を江ノ電の沿線と推定するくだりがあり、架線を震わすトロリーホイールの擦過音を一般人が認識することになった。

 長年親しんだ嵐電のポール集電だったが「1975年12月からZパンタグラフ集電に変更する」という知らせが舞い込んできたのは1975年の初秋。同じ京福電鉄の叡山線もポール集電であったが、こちらは集電容量の大きいスライダーシュー式を採用しており、日本の鉄道営業線からトロリーホイール式のポール集電が消え去る時がやって来た。掲載の写真は、嵐電からそのトロリーポールが消える最後の秋に写した作品だ。

 次のカットは三条通りに敷設された嵐山本線を四条大宮に向かう嵐電。トロリーポールを繋ぐトロリーコードが、窓下に設置されたトロリーキャッチャーに巻き込まれている。トロリーキャッチャーは不用意に架線からポールが外れた際、即座にトロリーコードを巻き上げてトロリーポールを下降させる装置で、戦前に輸入された米国製品だった。

 三条通りの歩道から、ニコンFにニッコール200mmF4レンズを装填してフレーミング。コダクロームIIは低感度なので絞り値を開放にして対応したが、アウトフォーカスになった背景の街並みの中に、去り行く嵐電のフォルムが浮かび上がった。山ノ内駅は後年、京都市電や京阪京津線の安全地帯が廃止されたために、京都府内で唯一の安全地帯仕様の停留所となった。

凛とした軌跡を残してファインダーの中を通過した四条大宮行きの嵐電。トロリーホイールの余韻が今も記憶に残る。嵐山~嵯峨駅前(現・嵐電嵯峨)(撮影/諸河久 1975年11月22日)
凛とした軌跡を残してファインダーの中を通過した四条大宮行きの嵐電。トロリーホイールの余韻が今も記憶に残る。嵐山~嵯峨駅前(現・嵐電嵯峨)(撮影/諸河久 1975年11月22日)

■走行中のトロリーポールを流し撮りで描写

「走行中のトロリーポールをビジュアルでいかに表現するか」も嵐電撮影行の課題だった。

 その結論として、引きの取れる撮影地でポール部位を含めた車体の動きに合わせ、スローシャッターを用いた「流し撮り」をすることとなった。終点嵐山を発車してすぐの短い橋梁を渡る地点で、嵐電を狙うことにした。シャッター速度を1/30秒に設定。カメラをスイングして流し撮りをしたのが次のカットだ。被写体となったのは、1932年に田中車輌で製造されたモボ111型だった。車齢は40年を超えているが、手入れの行き届いた車体は年輪を感じさせない神々しさがあった。振り上げたポールの先端で回転するトロリーホイールをしっかり捉えており、納得のゆく流し撮りとなった。

■嵐山駅の構内がゆったりしている訳は

 最後のカットが嵐山駅を発車する四条大宮行きの嵐電モボ121型。学生時代の1968年に訪ねた嵐山駅本屋は寺院風の瀟洒な建物だった。現在は商業施設「嵐山駅はんなり・ほっこりスクエア」になって、駅の周囲は大変貌を遂げている。

次のページ
不要不急路線に…