桜花満開の中、蹴上停留所を発車して四宮に向かう京津線の80型。画面左側が老舗「都ホテル」(現・ウェスティン都ホテル京都)の建物。蹴上~九条山(撮影/諸河久:1981年4月8日)
桜花満開の中、蹴上停留所を発車して四宮に向かう京津線の80型。画面左側が老舗「都ホテル」(現・ウェスティン都ホテル京都)の建物。蹴上~九条山(撮影/諸河久:1981年4月8日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は2021年新春特集として、「古都京都」を走った京阪電気鉄道京津線の路面電車を紹介しよう。

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 こんなご時世でもなければ、正月に「そうだ京都、行こう」と考えていた読者も多かったのではないだろうか。

 四季の美しい移ろいを楽しめる古都は、「日本一の観光地」といっても過言はない。一昨年の本コラムでは、京都市内にネットワークを誇った京都市電のエピソードを掲載している。今回は新春にちなんだ京都特集の第一回目として、京都三条と浜大津を結んだ京阪電気鉄道(以下京阪電鉄)京津線の路面電車を取り上げた。

■三条通りを走った京阪電鉄京津線

 冒頭の写真は三条から二つ目の停留所「蹴上(けあげ)」を発車した四宮行き80型。1961年に登場し、京津線近代化の旗頭となった高性能車両。近畿車両の製造で、逢坂山・東山越えの66.7パーミルの勾配に対応する電力回生ブレーキを装備。ホームのない停留所からの乗降には各扉にホールディングステップが設置されていた。

 昭和の時代には、京都市内を流れる加茂川に架かる三条大橋を東に渡ると、京阪本線の終着駅である三条駅が右手に見えた。三条駅の東端のホームからは、琵琶湖湖畔の浜大津に向かう京阪電鉄京津線の路面電車が発車を待っていた。京津線の電車は三条を出ると、三条通りに敷設された併用軌道を蹴上の先まで東進して、浜大津に向かっていた。

 電車の背景が「都ホテル」(現・ウェスティン都ホテル京都)で、1890年創業の老舗最高級ホテルだ。筆者は京津線の北側に位置する琵琶湖疎水の築堤上に植樹された桜花をフレーミングして撮影している。背後には鉄道ファンならずとも訪ねてみたい「蹴上インクライン」の遺構が国の史跡として保存されている。
 

旧蹴上停留所の東側に近接する「蹴上インクライン」の遺構。画面右端に1997年まで京津線が走っていた三条通りが見える。(撮影/諸河久:2007年3月17日)
旧蹴上停留所の東側に近接する「蹴上インクライン」の遺構。画面右端に1997年まで京津線が走っていた三条通りが見える。(撮影/諸河久:2007年3月17日)

 次のカットが「蹴上インクライン」と呼ばれる傾斜鉄道の遺構。軌道上に置かれた台車上に俎上する船を乗せ、坂上の蹴上船溜り方に設置された電動巻上機を使って、台車に接続するケーブルを上下させる構造だった。南禅寺船溜り~蹴上船溜り間581.8m、勾配は66.7パーミルで、1891年から1948年まで稼働していた。

 蹴上インクラインの一方に位置する瑞龍山南禅寺といえば、歌舞伎の「楼門五三の桐(さんもんごさんのきり)」を連想する。お芝居では、山門上の主人公石川五右衛門が「絶景かな 絶景かな」と名科白(めいせりふ)を回すシーンがある。その舞台となったのが京都三大門の一つ、重要文化財の南禅寺三門だ。

■京都市営地下鉄東西線の開通で路面区間と決別

 京津線と並行する三条通りの地下に建設中だった京都市営地下鉄東西線の二条~三条京阪~御陵(みささぎ)~醍醐が、1997年10月に開業することとなった。この結果、京津線と重複する京津三条(京阪本線の地下化で1987年5月に三条から改称)~御陵4100mが廃止されることになり、京都市内の路面区間と決別する時がやって来た。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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