越後交通栃尾線(旧称栃尾鉄道)ホハ11木造客車として転身した旧都電265。車端には手用ブレーキが増設されている。上見附駅(撮影/諸河久:1966年5月11日)
越後交通栃尾線(旧称栃尾鉄道)ホハ11木造客車として転身した旧都電265。車端には手用ブレーキが増設されている。上見附駅(撮影/諸河久:1966年5月11日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。前回に続いて、今回も「都電の都落ち」続編として、東京を去って地方に移籍し、市民の生活で欠かせない存在となった車両を紹介しよう。

【戦後が残る1953年に撮影された、のちに新潟で活躍することになる都電車両はこちら】

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 日本海側が大雪に見舞われているという。高速道路で車が動けなくなっている映像などを見ると心配になる。

 私自身これまでの撮影を振り返ると、大雪になることも珍しくなかった。本コラムでも以前に取り上げた東急玉川線「玉電」もしかり。路面電車にしろ鉄道にしろ、降り積もる雪のなかでも必死で車両を動かそうとしてくださる鉄道員の皆さんには感謝の気持ちしかない。

 今回はその日本海に面した、新潟と秋田を駆けた路面電車を紹介しよう。都電杉並線の木造電車が新潟県の軽便鉄道で客車として転身したことと、秋田市電に残る都電旧3000型の再生車両を訪ねたエピソードを楽しんでいただきたい。

■杉並線を走った都電が軽便鉄道の客車に変身

 新宿駅前~荻窪駅前を結ぶ都電杉並線(高円寺線・荻窪線の通称)は、1942年の交通調整法により西武鉄道から経営委託を受けた軌間1067mmの路線だった。杉並線は1951年に西武鉄道から東京都へ譲渡され、都電路線の仲間入りをしている。

 西武鉄道の前身である西武軌道の時代に発注した木造ボギー車250型が、今回スポットライトを当てる車両だ。10両在籍した250型のうち、ラストナンバーの265(1928年汽車製造製)が1953年5月に廃車された。これを新潟県の栃尾鉄道(後年栃尾電鉄→越後交通栃尾線に改称)が買い取り、なんと、軌間762mmの軽便客車として転身させた。

 冒頭のカットは、越後交通栃尾線で客車として稼働する旧265のホハ11。手塚工業が客車への改造を施工して、1954年6月から使用を開始している。265の車体幅は1981mmと狭いため、軽便規格の栃尾線でも十分フィットするサイズだった。ちなみに、栃尾線は電車線電圧750V、軌間762mmの地方鉄道で、軽便鉄道のジャンルに属する路線だ。

 客車化に際して、妻面に貫通路を増設。ステップ周りをプラットホームから乗降する仕様に改めたが、側窓や屋根構造は都電時代の形態を踏襲している。台車は杉並線時代の枝光S41型を改軌活用していたが、後年写真のようなアーチバー台車に振り替えられた。入線当時、栃尾鉄道の輸送量は最盛期を迎えており、座席の一部を撤去して乗車定員の増加を計っていた。
 
 越後交通栃尾線/悠久山~栃尾(26400m)は1975年4月まで存続した。旧都電の木造ボギー車ホハ11は鋼体化改造されることもなく、1960年代後半には姿を消していた。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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