鉄軌分界点から軌道区間に入り、新木田交差点を走る福武線の超低床車「フクラム」F1000型。赤十字前~商工会議所前(撮影/諸河久:2019年8月30日)
鉄軌分界点から軌道区間に入り、新木田交差点を走る福武線の超低床車「フクラム」F1000型。赤十字前~商工会議所前(撮影/諸河久:2019年8月30日)

 福武線の冒頭写真は、越前武生(旧武生新)発えちぜん鉄道三国芦原線鷲塚針原行きの急行に充当された「フクラム」で、赤十字前(旧福井新)~商工会議所前(旧木田四ッ辻)の鉄軌分界点を通過して併用軌道に入ったシーンを撮影した。

 福武線の軌道区間では2010年から停留所の幅員拡張、屋根の設置、バリアフリー対応などのリニューアル工事が停留所名の改称と共に開始され、2017年に完了している。

雨の日の高床車両への乗降は難儀だった。狭隘な幅員の公園口停留所の一コマ。(撮影/諸河久:1985年12月1日)
雨の日の高床車両への乗降は難儀だった。狭隘な幅員の公園口停留所の一コマ。(撮影/諸河久:1985年12月1日)

 次のカットは、雨の日の公園口(現足羽山公園口)停留所の一コマ。武生新(現越前武生)行きのモハ140型が到着し、狭隘な停留所から傘を差した女高生が乗車するシーンだ。鉄道線用で床の高い車両にはホールディングステップが設置されているが、両手でハンドレールを握らないと乗車できないので、悪天日には難儀だったことと推察される。

 そして最後のカットが、駅前線の福井駅前(現福井駅)を発車して武生新(現・越前武生)に向かうモハ80型を大名町交差点で撮影した。前面下部に設置された救助網とホールディングステップが写っている。画面右側には武生方面のみの乗降に使われた本町通停留所(2002年に廃止)が見える。その隣にセミクロスシートを設置した2両連接の急行専用車モハ200型福井駅前行き急行が信号待ちしていた。

福井駅前を発車して駅前線を市役所前(現福井城址大名町)に向かうモハ80型。福井城址はカメラ光軸の反対側に位置して、城跡には福井県庁が所在している。画面右には当時の急行専用車モハ200型が信号待ちしていた。(撮影/諸河久:1968年10月2日)
福井駅前を発車して駅前線を市役所前(現福井城址大名町)に向かうモハ80型。福井城址はカメラ光軸の反対側に位置して、城跡には福井県庁が所在している。画面右には当時の急行専用車モハ200型が信号待ちしていた。(撮影/諸河久:1968年10月2日)

 モハ80型は旧南海電気鉄道電5型(1921年製)の木造ボギー車で、福井鉄道には1948年に入線している。1956年に日本車輛で新造された車体への乗せ換えが行われ、福武線の主力として活躍した。晩年は冷房改造も施工されたが、2006年の低床車両導入時に退役している。

 この連載を続けていると「路面電車がある街並みには活気がある」といったようなコメントを、よくいただく。いまあらためて見れば、確かにそう感じられるカットも多い。街と人にやさしい路面電車が、新たな都市交通の活性化につながることを切に願う。

■撮影:1967年2月26日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。2019年11月に「モノクロームの軽便鉄道」をイカロス出版から上梓した。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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