美濃町線の起点徹明町に到着し、降車扱い中のモ510型。徹明町は岐阜の中心地で、電車道には商家が林立していた。画面右の路上には、工業デザイナー小杉二郎デザインの「マツダK360型」軽三輪トラックが写っている。(撮影/諸河久:1965年3月20日)
美濃町線の起点徹明町に到着し、降車扱い中のモ510型。徹明町は岐阜の中心地で、電車道には商家が林立していた。画面右の路上には、工業デザイナー小杉二郎デザインの「マツダK360型」軽三輪トラックが写っている。(撮影/諸河久:1965年3月20日)

 そして次の小雪が舞うカットが、美濃町線の起点徹明町の情景だ。1950年、美濃町線開業以来のターミナルだった岐阜柳ヶ瀬から利便性の高い徹明町に起点を移設している。これにより梅林~徹明町900mの新線が開業し、梅林~岐阜柳ヶ瀬800mの旧線は廃止された。

 1999年からは美濃町線の不採算区間である新関~美濃を廃止し、ワンマン運転等の実施で合理化を図ったが、業績は好転しなかった。最後の切り札である公営民営方式による存続を岐阜市に諮ったが、利用客減少や財政難を理由に断念され、全線廃止への道を辿った。

■静岡県下最後の路面電車

 かつて静岡県には清水市内線の他に「伊豆箱根鉄道軌道線」「静岡鉄道秋葉線」「静岡鉄道静岡市内線」の3路線が存在したが、いずれも1960年代に廃止されている。

 唯一残存した静岡鉄道清水市内線は西久保以遠が専用軌道であることや、併用軌道で国道1号線上を走るものの、1号バイパスの整備で自動車の波が緩和されるなど、1980年代までは盛業すると思われた。その矢先、1974年の七夕豪雨で庵原川橋梁の橋脚が沈下して、全面運休の憂き目にあった。被害を受けた橋梁は復旧されないまま、翌1975年に全線が廃止された。なんともあっけない幕引きであっが、老朽化したインフラを抱えていた当事者にとっては「渡りに舟」の水害だったのかも知れない。

暑かった夏の日、新清水で乗車扱い中の横砂行きモハ57。後方には新清水止まりで、手前に伸びる軌道を使って新清水駅の電留線に入庫するモハ66が写っている。(撮影/諸河久:1964年8月7日)
暑かった夏の日、新清水で乗車扱い中の横砂行きモハ57。後方には新清水止まりで、手前に伸びる軌道を使って新清水駅の電留線に入庫するモハ66が写っている。(撮影/諸河久:1964年8月7日)

 清水市内線の冒頭写真は、静岡鉄道静岡清水線の新清水の駅前で、同線からの乗り換え客で賑わう清水市内線の横砂行き電車。乗客がホールディングステップを使って高床式のモハ57に乗り込む光景を撮影した。新清水の駅前には清水港と国道1号線を結ぶ港国道と呼ばれる国道149号線が走っており、頻繁に走ってくる車を縫って路上から路面電車に乗降するのはリスキーなことだった。

 次のカットは、真夏の炎天下、日除けもない嶺で離合待ちするモハ63を新清水から乗車したモハ57の車窓から撮影した一コマ。タブレットを携行した運転士と港橋行き電車の右側に並走する国鉄(現JR)東海道線の路線が写っている。

西久保からは単線の専用軌道を走り、東海道本線と並行する交換駅の嶺に到着。炎天のホームにはタブレットを携行した運転士が待っていた。(撮影/諸河久:1964年8月7日)
西久保からは単線の専用軌道を走り、東海道本線と並行する交換駅の嶺に到着。炎天のホームにはタブレットを携行した運転士が待っていた。(撮影/諸河久:1964年8月7日)

 清水市内線は1928年に静岡鉄道の前身である静岡電気鉄道が、港橋~横砂4600mを結ぶ路面電車を敷設。当初は江尻新道(後年新清水に改称)の国鉄(現JR)東海道線踏切を徒歩連絡して横砂行きに乗り換えたが、1933年の国鉄(現JR)東海道線跨線橋完成により直通運転が開始された。

■路面電車先進都市・福井

 福井市には福井鉄道福武線(以下福武線)の路面電車が盛業中だ。「FUKURAM(フクラム)」と愛称される超低床3連接LRVのF1000型が2013年から4編成が導入されている。2016年には、福井駅前線をJR福井駅西口広場に延伸して利便性を高めるなど、地域公共交通活性化法に準拠した鉄道事業の再構築が実施されつつある。路面電車再生へのモデルケースとして、熱い視線を浴びている。
 

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雨の日の停留所