花巻駅構内で休む花巻電鉄鉛線デハ3は「馬面電車」の愛称で親しまれた。晩年は予備役で、左後方に写っている花巻温泉線からの転入車が主力だった。(撮影/諸河久:1969年5月5日)
花巻駅構内で休む花巻電鉄鉛線デハ3は「馬面電車」の愛称で親しまれた。晩年は予備役で、左後方に写っている花巻温泉線からの転入車が主力だった。(撮影/諸河久:1969年5月5日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。前回に続き夏休み特別編として、諸河さんが半世紀前の学生時代に撮影した各地の路面電車の風景をお届けする。特別編の第2回は、東北地方で50年ほど前まで活躍した花巻電鉄鉛線、仙台市交通局、秋田市交通局、福島交通軌道線の路面電車にスポットを当てた。

【仙台や秋田、福島を走った今では見られない50年前の車両と風景はこちら!(計8枚)】

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 東北の夏も、暑い。

 本来ならこの時期、東北地方にも旅行客や帰省者が集まっているはずだが、今年はいまいましい新型コロナウイルスの影響でなかなか外出ができない。せめて往時の作品から、みちのくの路面電車の風情をお楽しみいただきたい。

■花巻電鉄名物「馬面電車」

  冒頭写真は岩手県花巻市。花巻電鉄名物「馬面電車」の愛称で知られるデハ3が花巻駅で休むシーンだ。読んで字のごとく、「ウマヅラ」が関係する。

 国鉄(現JR)花巻駅に接続する花巻と西鉛温泉18000mを結ぶ花巻電鉄鉛線は、軌間762mmの軽便路面電車として無二の存在だった。しかもトロリーポールによる集電だったので、軽便鉄道と路面電車双方の愛好者からは垂涎の存在だった。ちなみに、電車線電圧は600Vだった。

 豊沢川に沿った狭隘な田舎道に敷設されたため、車体の最大幅が1.6mという制限が設けられた。さらに、車体の前後はカーブを通過する制約からより狭くなっているのと、正面を3枚窓にしたため細長い馬の顔を連想させる面相になってしまった。膝を突き合わせるようなロングシートの車内は、座席定員の28名に加えて、用意された吊革を使用する立席定員が22名で、合計50名の乗車定員だった。実際にこれほど乗れたのか、今になって疑問が生じてくる。

かつては狭隘な砂利道だった県道花巻大曲線は拡幅舗装され、軽便軌道の時代は終焉を迎えていた。走り去る路線バスを横目に花巻に向かう鉛線のデハ21。 二ッ堰~一本杉(撮影/諸河久:1969年5月5日)
かつては狭隘な砂利道だった県道花巻大曲線は拡幅舗装され、軽便軌道の時代は終焉を迎えていた。走り去る路線バスを横目に花巻に向かう鉛線のデハ21。 二ッ堰~一本杉(撮影/諸河久:1969年5月5日)

 製造所は軽便用車両を得意とした雨宮製作所で、1931年に製造されている。このデハ1型は3両が在籍し、他に木造車体の1927年製デハ5型も在籍した。1960年頃から沿線の道路拡幅改修が進み、車体幅2.13mの花巻温泉線(花巻~花巻温泉 8200m)用の車両が転入して、「馬面」の一党は予備役となってしまった。写真のデハ3の後ろに広幅車体の旧花巻温泉線用のデハ3が写っており、同じ画面に2両のデハ3が記録されていた。
 
 次のカットは茅葺屋根の南部田舎家の軒をかすめて花巻に向かう鉛線の電車を120サイズのエクタクロームハイスピードカラーポジフィルム(ISO160)で撮影した一コマ。既に道路は舗装拡幅改修を終えており、鉛温泉方面の路線バスが颯爽と走り去った。この撮影から数カ月を経た1969年9月、軽便路面電車の鉛線に終焉が訪れた。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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