東京を走った流線形車両1200型。8系統(中目黒~築地)の中目黒終点で折り返しを待つ。(撮影/諸河久:1964年7月4日)
東京を走った流線形車両1200型。8系統(中目黒~築地)の中目黒終点で折り返しを待つ。(撮影/諸河久:1964年7月4日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は1930年代に世界的流行となった「流線形」に呼応して、各地に出現した流線形路面電車の話題だ。

【半世紀以上前に大阪や仙台を走った「流線形」路面電車の貴重な写真はこちら(計4枚)】

*  *  *

 4月7日の前例なき緊急事態宣言の発令から、およそ1カ月半。医療従事者への感謝はもちろん、さまざまなリスクがあるなかで日々運行を続けてくださっている鉄道関係者の皆さまにも、この場を借りて深く感謝を申し上げたい。国内の多くの地域は宣言が解除されたが、私たちは気を緩めすぎることなく、徐々に日常を取り戻していく必要があるだろう。

 いまだ世界を揺るがす新型コロナだが、さかのぼること約90年前にこんなことがあった。

■不況下が生んだ流線形

 1929年10月、アメリカ合衆国で起きた大恐慌は世界中を席巻した。この影響は日本にも及び「昭和恐慌」と呼ばれた未曽有の不況時代に突入した。何かに夢を託さずにはいられなかった不況下の1930年代、欧米では自動車や鉄道車両に変化が生まれた。「流線形時代」が到来したのだ。

 身近を走る自動車もスマートな流線形デザインとなり、鉄道車両でも欧米各国は競って目を見張るような流線形列車をデビューさせた。流線形は乗車意欲を高めるための必須なアイテムとして世界的な流行となった。

 日本でも、当時の国鉄が1934年に流線形の嚆矢(こうし)として特急用蒸気機関車C5343号機を登場させ、1936年には「流電」として一世を風靡した流線形のモハ52系が新造され、京阪神間の急行電車として颯爽と走り始めた。

 この流線形ブームは路面電車にまで及び、不況時代に「用もないのに乗りたくなる」乗客誘致への一策として流線形路面電車が各地に登場した。

■東京で活躍した流線形電車

 冒頭のカットは1964年に撮影した都電8系統に充当された1200型で、駒沢通りの中目黒終点で折り返しを待つシーンだ。1949年から出入口扉が2枚折戸から2枚引戸に改造され、集電装置もポールからビューゲルに替った。1960年代から、キャピタルクリームにエンジの帯を巻いた塗色に変更。この1204は1936年2月日本車輛製で、配置された広尾車庫の廃止にともなって廃車されている。

 なお、1961年から1200型の車体を延伸改造して、定員96名(座席24名)の1500型が登場した。46両全車が錦糸堀車庫に配置され、1971年まで江東地区で活躍した。

 そもそも東京市電(当時)に登場した流線形車両は、木造車を鋼体化改造した1200型で、1936年に登場した。この1200型は1942年までに109両が日本車輛、帝国車輛の2社で製造された。妻面が傾斜した流線形の張り上げ屋根構造だった。リベット仕上げ車体のため凹凸が目立ち、スマートとは言い難かった。デビュー当時、集電装置はシングルポール式で、塗色グリーンとクリームのツートンカラーだった。

著者プロフィールを見る
諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

諸河久の記事一覧はこちら
次のページ
大阪を走る流線形の路面電車