日大経済学部の校舎から俯瞰した白山通りで行き交う17系統池袋駅前行きと数寄屋橋行きの都電。画面左奥に営団地下鉄(現東京メトロ)丸ノ内線の跨道橋が見える。右側の七階建てのビルが、筆者が実習授業に通った日本水道会館。(撮影/諸河久:1968年3月12日)
日大経済学部の校舎から俯瞰した白山通りで行き交う17系統池袋駅前行きと数寄屋橋行きの都電。画面左奥に営団地下鉄(現東京メトロ)丸ノ内線の跨道橋が見える。右側の七階建てのビルが、筆者が実習授業に通った日本水道会館。(撮影/諸河久:1968年3月12日)

 次のカットは、タクマー200mm望遠レンズが捉えた水道橋停留所を行き交う17系統の都電だ。17系統は3月31日で、運転区間が池袋駅前~数寄屋橋から池袋駅前~文京区役所前(旧称春日町)に短縮の予定で、水道橋からは姿を消すことになっていた。画面手前から左奥にかけて、白山通りに敷設された水道橋線の軌道敷が写っている。画面左中央が後楽園前停留所で、戦前は壱岐坂下と呼称されていた。その奥に営団地下鉄(現東京メトロ)丸ノ内線の跨道橋が見えている。

 私事で恐縮だが、筆者が東京写真専門学院(現東京ビジュアルアーツ)に在学中、画面右手前に写っている「日本水道会館」にはスタジオと暗室の教室が設置されていた。二年次には駿河台のお茶ノ水本校舎と共に、この水道会館でも実習授業を受けていた。建物の二階には喫茶店「舟」があった。供食施設やロビーが整った本校舎と違い、分校舎の水道会館にはその様なスペースがなく、舟が先生方や学生の談話室になっていた。コーヒーカップを傾けながら、先生方や級友たちと写真論を熱く語った思い出がある。

 また、作家・三島由紀夫がトレーニングに通った「後楽園ジム」帰りの飲食に、舟の階下で盛業していた「かつ吉」を贔屓にしていた。というエピソードも残っている。

水道橋交差点から文京区役所方面を写した白山通りの近景。周辺はオフィスビル街に変貌し、都電が走っていたことも連想できない。遠景に見える跨道橋を東京メトロ丸ノ内線の電車が走り去った。(撮影/諸河久)
水道橋交差点から文京区役所方面を写した白山通りの近景。周辺はオフィスビル街に変貌し、都電が走っていたことも連想できない。遠景に見える跨道橋を東京メトロ丸ノ内線の電車が走り去った。(撮影/諸河久)

 最後のカットが水道橋交差点から写した半世紀後の白山通りと本郷一丁目の近景だ。件の日本水道会館は建て直されて、貸し会議室の全水道会館になっていた。画面左隅の観覧車の見える遊園地は、従来の「後楽園ゆうえんち」をリニューアルした「東京ドームシティアトラクションズ」で、2002年に開園している。

 左奥の東京メトロ丸ノ内線の跨道橋には1988年に登場した02系が写っている。数年後に全車が新鋭の2000系に置き換えられる予定だ。
 
 1960年代の水道橋交差点は2・13・17・18・35の五系統の都電で賑わった。最後まで残った13系統が1970年3月に廃止され、交差点から都電の轍が消えた。

 温かさや生活感に溢れた本郷の街並みは、半世紀という歳月の中でオフィスビルが林立するクールな街に変貌した。時の流れの冷酷さを、あらためて痛感している昨今だ。

■撮影;1969年6月9日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。2019年11月に「モノクロームの軽便鉄道」をイカロス出版から上梓した。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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