実際この年の夏には「痢病」が流行ったことから、こうした図像入りの情報が摺り物または転写物によって流布し、一種の護符(お守り)としての役割を果たした。当時の人々の間には、珍獣や幻獣の姿を“見る”と除災招福の御利益があるとのメンタリティが存在していた。これに先立つ文化2年(1805)、予言の文言こそないものの、人魚(長髪の人面魚)の摺り物が災い除けの護符として販売されたのも同様の現象だ。こうした流行の記憶が後のあま彦流行時に、魚類・長髪の要素を持ち込むことになったのではないか。アマビエと尼彦入道は、猿系3本足のあま彦と長髪人面魚系の神社姫の両方の形質を受け継いだだけでなく、その護符としての機能もあわせて継承したのだと言えよう。

 19世紀初頭から明治10年代にかけて、人間に予言と除災の方法を告げたモノの存在が数多く確認されている。妖怪研究家の湯本豪一氏が、これらのモノを括る“予言獣”という概念を示したことで、誰もが気付いていなかった新たな種が“発見”され、また個々の特性や相互の類似関係が徐々に明らかになってきた。ただし“予言”の部分に重きを置くか、または摺り物や転写物の“護符”機能を重視するかで、後続の研究者の“予言獣”評価は異なっている。

 現在、SNSにおける流行では、アマビエの“予言”部分には触れないものがほとんどだ。もっぱら「疫病退散」や「終息祈願」などのコメントとともに画像が“護符”の一種として拡散され、スマホの待ち受け画面にもなっているという(「経済回復」を願うものまである)。

 よく読めば、アマビエの摺り物には護符としての効能は明記されていないが、それが神社姫やあま彦の系譜を引くものである以上、当時の購入者はこの摺り物を単なるニュース・メディアとして求めただけではなく、護符的な力も期待していたことは想像にかたくない。

■かわら版からハンドメイドのストラップまで進化

 アマビエについては摺り物1枚が伝わるだけで、詳しい受容の経緯を追うことができない。そこで最後に、代表的な“予言獣”である天保14年のあま彦の拡散の歴史をたどることで、これらの特性を明らかにしてみたい。

 まず、天保14年中の流布に際し、すでにあま彦の「異本」があわせて流布していた。図像は簑(みの)を着た3本足の手の無い人間のように描かれており、文中の出現場所が異なるほか、予言の豊年期間が5年と短い。猿系と簑系、どちらが原種に近いかの見極めは難しいが、相互に影響を及ぼしあったことは確かだろう。また、翌天保15年(1844)には「海彦」「雨彦」と名を変え、文章も図像も幾分か異なるものが越前国(福井県)の豪農商の家で2点確認されている。いずれも手書きでの転写を重ねて拡散する過程での変容だ。

左=あま彦(異本の図)(『連城亭随筆 25巻』国立国会図書館蔵)、右=海彦(『越前国主記』福井県立図書館蔵)
左=あま彦(異本の図)(『連城亭随筆 25巻』国立国会図書館蔵)、右=海彦(『越前国主記』福井県立図書館蔵)

 その後、明治8年(1875)の新聞に載った「天日子尊(あまひこのみこと)」は4本足の動物のように描かれており、あるいは翌9年の新聞に載った4本足の恐竜のような「アリエ」も「あま彦→天日子尊」のさらなるヴァリエーションかもしれない。

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繰り返された”変容”