■アマビエと尼彦入道に共通する原種“あま彦”

 じつは尼彦入道とアマビエには共通の原種がいた。天保14年(1843)に流行した「あま彦」である。この年代の記載がある「あま彦」の資料は、御三卿田安家の徳川斉匡の貼交帖『献英楼画叢』に2点、名古屋の「同好会」メンバーによる2冊の風説留(情報や噂の記録集——水野正信『青窓紀聞』と小寺玉晁『連城亭随筆』)に2点の計4点が確認されている。いずれも元はアマビエの摺り物のように一紙の状態で流布したものらしい。

左=尼彦入道(『長野新聞』明治9年6月21日)(『帝都妖怪新聞』角川ソフィア文庫より引用転載)、右=あま彦(『連城亭随筆 25巻』国立国会図書館蔵)
左=尼彦入道(『長野新聞』明治9年6月21日)(『帝都妖怪新聞』角川ソフィア文庫より引用転載)、右=あま彦(『連城亭随筆 25巻』国立国会図書館蔵)

 これらの資料には、3本足の猿のような図像がやはり左向きで描かれており、文章には、肥後に現れて猿の声で人を呼んだこと、「我は海中に住むあま彦と申すもの也」と名乗ったこと、この先6年間の豊作と病気流行による人間の大量死を予言したこと、自身の姿を書き見て諸国に広めるという除災方法を告げたことなどが書かれている。

 では今度は3者を比較してみよう。まずは図像だが、左向きで3本足(ヒレ)という点は共通するが、あま彦が猿なのに対し、アマビエと尼彦入道には長髪の魚類という特徴が見られる。文章は、あま彦と尼彦入道は非常に似ているが、アマビエだけ情報量が少ない。またアマビエの名は「あま彦(アマビコ)」の「コ」の字が「ヱ(エ)」に置き換わったものだが、その点は尼彦入道に引き継がれていない。

 以上の比較から、原種と亜種という関係性は間違いなさそうだが、どうやら一直線に「あま彦→アマビエ→尼彦入道」と“進化”を遂げたわけではないらしい。あま彦と亜種のアマビエ・尼彦入道との間は、現在ミッシング・リンクとなっているが、文章があま彦とほとんど変わらず、図像に魚類・長髪の要素が加わった別の種がいたはずで、そこからさらに枝分かれして“進化”していったものと推測できる。

■200年前の“人魚ブーム”から始まったメンタリティ

 さらに時代をさかのぼり、あま彦の“進化”に影響を与えた種を探ってみよう。文政2年(1819)に江戸で「神社姫」、大坂で「姫魚」、名古屋で「人魚」という類似の怪異情報が流行した。摺り物・転写物等あわせて10点ほどの資料が確認されている。文章・図像とも細部に違いはあるが、おおよそ次のような共通点がある。

神社姫(『学校の怪談 口承文芸の研究I』角川ソフィア文庫より引用転載)
神社姫(『学校の怪談 口承文芸の研究I』角川ソフィア文庫より引用転載)

 まず文章には、肥前国(長崎・佐賀県)の浜辺に現れた竜宮の使者が、7年間の豊年と「コロリ」病の流行を予言し、自身の姿を書いて見る、またはそれを門に貼り置くという除災の方法を告げた、とある。図像はほとんどが左向きで、人面の頭部には角と長髪、長い胴体には魚か蛇に似たウロコ、特徴的な3本の剣状の尾ビレがある。

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当時はびこったメンタリティとは?