桜並木の金王坂には渋谷駅前に向かうループ線が敷設されていた。下り専用の単線を走る6系統渋谷駅前行きの都電。青山車庫前~渋谷駅前(撮影/諸河久:1963年4月7日)
桜並木の金王坂には渋谷駅前に向かうループ線が敷設されていた。下り専用の単線を走る6系統渋谷駅前行きの都電。青山車庫前~渋谷駅前(撮影/諸河久:1963年4月7日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、渋谷「宮益坂」や麻布「土器坂(かわらけさか)」など山手の坂道を上り下りする都電だ。

【坂道の別カットや、40年前サンフランシスコを走る貴重な路面電車の写真はこちら(計8枚)】

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 坂道と聞いて、何を思い浮かべるだろう。聞いたところでは、全力で坂道を駆け上がるテレビ番組があるとか。はたまた坂道はアイドルのグループ名としても使われているとか。

 だが、往年の路面電車の愛好家ならこう答えるかもしれない。坂道は最大の「見せ場」だ、と。

 東京の下町は川や堀割(ほりわり)で仕切られていたから、隣町への移動は橋を渡らなければならなかった。これと対照的なのが山手(やまのて)で、本郷や青山、麻布などに代表される丘陵地にあるから、隣町への移動は坂を越さなければならなかった。

 このような山手の坂道を上下する都電の姿はとてもフォトジェニックで、筆者もたびたびカメラを向けている。2018年12月8日に配信したコラム「西麻布・笄坂(こうがいざか)」編でもご紹介しているが、急勾配の坂道を下る場合は必ず「特別坂路 注意」の標識が掲示されていた。都電は坂上の停止線で一旦停車し、前走電車の有無やブレーキの状態などを確認してから坂下に向かっていった。

地元有志の手で1979年に建立された「金王坂」の石碑。(撮影/諸河久:2020年3月15日)
地元有志の手で1979年に建立された「金王坂」の石碑。(撮影/諸河久:2020年3月15日)

■渋谷駅前のループ線

 青山通り(国道246号線)に敷設された青山線で渋谷駅前に向かうと、一つ手前の青山車庫前から約200m走ったところで特別坂路の「金王坂(こんのうざか)」に差し掛かる。渋谷駅前行きの都電は停止線で一旦停車して、急坂を下って行く。この坂の最急勾配は66.5パーミル。これは1000mで高低差が66.5mあることを示している。この勾配数値は、旧国鉄信越本線碓氷峠(横川~軽井沢・66.7パーミル)の急勾配に匹敵する坂道だ。ちなみに、都電の最急勾配は白山線の「白山坂(指ヶ谷町~白山上)」で、69パーミルの勾配だった記録が残っている。

 冒頭の写真は金王坂を下る6系統渋谷駅前行きの都電で、沿道の桜並木が満開を迎えた頃の撮影だ。画面右にはフランス製「シトロエン/トラクシオン・アバン11B」のビンテージカーが写り込む貴重な一コマだ。

 金王坂の呼称は、この背景一帯の金王町がその由来で、南東の方角にある金王八幡神社に因んで、昭和初期に金王町と命名された。1966年の町名改正によって渋谷一・二丁目に改称され、まことに味気ない町名になってしまった。先日現地を探訪した折、旧画面の都電の裏側に位置するところに設置された「金王坂」の石碑を撮影した。


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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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渋谷・宮益坂からかつては富士山も?