銀座通りを芝浦工場へ向けて走る乙1002。千載一遇の出合いを撮影した一コマ。並行する都バスは32系統で、池袋駅と新橋駅を結んでいた。通三丁目~京橋 (撮影/諸河久:1963年4月3日)
銀座通りを芝浦工場へ向けて走る乙1002。千載一遇の出合いを撮影した一コマ。並行する都バスは32系統で、池袋駅と新橋駅を結んでいた。通三丁目~京橋 (撮影/諸河久:1963年4月3日)

 東京は五輪イヤーに突入した。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は新幹線「ドクターイエロー」のような存在だった都電の事業用電車「乙(おつ)」型を紹介しよう。

【路面電車ファンには垂涎の的? 貴重な「乙」の別カットはこちら(計3枚)】

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 JR東海道新幹線の東京駅頭で、偶然に黄色く彩られた新幹線の電気軌道総合試験車「ドクターイエロー」に出合うと「ラッキー」と思われる方も多くいらっしゃるだろう。

 実は都電にも、ドクターイエローのような試験車ではなかったが、芝浦に所在した東京都交通局芝浦電車輛工場(以下芝浦工場)と各車庫との間の輸送業務に携わっていた「乙(おつ)型」と呼ばれる無蓋貨物電車が存在した。運搬する貨物は車輪・モーターなどの消耗品や補修部品だった。

 都電好きの筆者は中学時代から三田・青山・荒川車庫にお邪魔して、都電を見学していた。めったにお目にかかれない「乙」の存在を探すと、たいていは車庫の片隅の狭く暗い場所に据え置かれており、まともな撮影は叶わなかった。

■「乙」を見かけたときの喜びたるや…

 ドクターイエローの都市伝説のように「見たら幸せになる」とまで言われていたかは記憶にないが、路面電車の愛好家であれば一度はお目にかかりたいものだった。

 しかしながら、「稼働中の乙の姿をカメラに収めたい」という願望はなかなか叶えられなかった。現在なら車庫の担当にネゴシエーションして、乙型が稼働する日の情報を教示していただくか、同好者のネット情報で動静を知ることができる。しかし当時は、このような環境はまったく考えられなかったから、街中で乙が走ってくるシーンに遭遇した驚きと喜びは、筆舌では表せないものであった。カメラを帯同しない丸腰の状態で遭遇し「見鉄(みてつ)」した時の悔しさを何度も体験しているから、その達成感はひとしおだった。

 写真は1963年の春、カメラを肩に都電ハイクに出かけた矢先のことだった。銀座通り(現中央通り)の本通線に沿って京橋から通三丁目方向に歩いて行くと、日本橋方から見慣れないダークグリーンの車両が視界に入った。とっさにカメラを構えて構図を整えた。銀座通りの西側を歩いていたことが幸いして、並走してきたタクシーや都バスに被られることなく、念願の一コマをモノにすることができた。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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