物件探しが難航していたとき、電車で寝過ごして葛西駅に辿り着いた。初めて降り立つ駅だったが、とりあえずと軽い気持ちで不動産屋を訪ねた。そのとき紹介された喫茶店の居抜き物件の雰囲気を気に入り、勢いで決めてしまった。

 ラーメン屋をやると決めてから、ラーメンの食べ歩きも始めていた。だが、当時ブームだった豚骨や背脂系はどうも好きになれなかった。自分が作るなら地元・気仙沼で食べていた懐かしい支那そばを出したいと思った。こうして「ちばき屋」はオープンした。「ちばき」は実家の「千葉喜商店」からもらった名前である。

 もともと和食時代にまかないでラーメンを作っていたこともあり、鶏、豚、カツオ、煮干、昆布など食材の合わせ方は熟知し、バランスや火加減、灰汁取りなども完璧だった。料理人の意地でチャーシューやメンマなどの具材も手作りにこだわった。

「支那そば」は一杯700円。トッピングで煮卵(100円)をつけた(筆者撮影)
「支那そば」は一杯700円。トッピングで煮卵(100円)をつけた(筆者撮影)

 今では当たり前のように使われている半熟煮卵を最初にラーメンに合わせたのも「ちばき屋」だ。当時ラーメンに乗っていたのは茹で卵、もしくは味玉でも固茹でのものばかりだった。だが、黄身がボロっと崩れてスープが濁るのが嫌だと黄身を羊羹状にし、程よい塩梅の醤油とダシに一晩漬け込んだ。当時味玉にこんなにも手間をかける店はどこにもなかった。

■ハイヤー生活からママチャリ生活に一転

 こうしたこだわりもあり、オープン当初から日に100杯は売り上げ、そこそこの滑り出しだった。だが、行列はできなかった。当時、葛西にはラーメン専門店はほとんどなく、ラーメンは街の中華屋で食べるものだった。「ちばき屋」は出前もせず、ご飯ものや餃子も出さずに支那そば一本で勝負していたことから、「なに気取ってんだお前」とお客さんから罵られたこともあったという。総料理長時代のハイヤー生活から一転、ママチャリ生活になった千葉さんを見た娘から心配されたこともあった。あまりの落差にさすがに悩んだこともあったという。

「周りの料理人たちからも『なんでラーメン屋なんかになったんだ』とよく言われて、イラッとしました。ラーメン屋『なんか』ってなんだよ、と。一回笑われても絶対見返してやろうと必死でもがきました」(千葉さん)

 その後少しずつ口コミが広がり、テレビで紹介されると人気に火がついた。“半熟煮卵の元祖”としても脚光を浴び、雑誌にレシピを全公開したこともあった。「一風堂」や「くじら軒」などとともにラーメンブームを作り上げ、切磋琢磨しながらラーメン界を引っ張ってきた。千葉さんは言う。

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支那そばを貫く理由