森閑とした西荒川終点に停車する25系統日比谷公園行きの都電。裸電球が灯る詰所では、都電の定期券や回数券を発売していた。背景に荒川の土手が見える(撮影/諸河久:1963年4月3日)
森閑とした西荒川終点に停車する25系統日比谷公園行きの都電。裸電球が灯る詰所では、都電の定期券や回数券を発売していた。背景に荒川の土手が見える(撮影/諸河久:1963年4月3日)

 西荒川のカットは、中学を卒業して高校に進学が決まった春休み、中学時代の愛機だった「フジカ35SE」を携えて西荒川終点にやってきたときの一コマだ。このカメラに装填されたフジノン45mmF1.9レンズは、やや広角の写角で、このような終点風景のスナップにはうってつけだった。フィルムは35mm判ネオパンSS(ISO100)を使用している。
 
 西荒川に着いた都電は画面の左側で乗客を降ろし、方向幕を「日比谷」(日比谷公園)に巻き替えると右側の扉を開いて乗車させていた。簾(すだれ)のかかった木造の詰所には裸電球が灯り、交通協力会の職員が定期券や回数券を発売していた。都電の左側に見える美容院、和洋裁学校。眼科医院の看板が昭和の時代を感じさせてくれる。

20年後に定点撮影に訪れた旧西荒川終点跡。右側上空を首都高速道路7号線に塞ぐ。背景の民家と荒川の土手の位置を頼りに定点を探り当てた記憶がある(撮影/諸河久:1983年1月12日)
20年後に定点撮影に訪れた旧西荒川終点跡。右側上空を首都高速道路7号線に塞ぐ。背景の民家と荒川の土手の位置を頼りに定点を探り当てた記憶がある(撮影/諸河久:1983年1月12日)

 遠景で見にくいが、都電と詰所の間に見える荒川の土手には、お孫さんを背負うお年寄りの姿も写っていた。戦前はこの西荒川から対岸の東荒川まで、小松川橋を渡る連絡バスが出ていたという。

 現状写真を撮りにいく段になり、「Googleマップ」で旧終点付近と思われるストリートビューを閲覧すると、そこには想像もつかない風景が展望していた。撮影の参考となるランドマークは、首都高速7号線の高架橋と荒川の護岸壁だけだった。

 1983年1月に拙著『都電の消えた街』(大正出版刊)の取材で西荒川終点跡に赴いた。この時のカットを見ると、旧景にある詰所の直上あたりに首都高7号線の高架橋が覆いかぶさるように写っていた。

直近に訪れた西荒川終点と思しき場所。首都高速7号線と荒川の堤防の位置からこの撮影地を選択したが、かつてを彷彿させるものは見つけられなかった(撮影/諸河久:2019年9月30日)
直近に訪れた西荒川終点と思しき場所。首都高速7号線と荒川の堤防の位置からこの撮影地を選択したが、かつてを彷彿させるものは見つけられなかった(撮影/諸河久:2019年9月30日)

 この写真を携えて、旧西荒川終点の撮影定点を探したが、すぐには判別できなかった。旧西荒川終点に隣接していた民家群はすべて消え去り、周辺は高層住宅地になっていた。終点まで辿っていたと推測される軌道跡の道路も、途中からかさ上げされた上り坂になっていた。右にカーブを描く首都高速7号線の高架橋のみが「終点はこのあたりだった」ことを推察させてくれたが、あまりの違和感に「この定点と思しき場所は選定違いである」ことを願ってシャッターを切った。通行人に昔話を尋ねようとするが、往時を知る人に会うことは叶わなかった。

 撮影から56年。記憶だけがはかなく残る。

■撮影(中目黒):1965年3月30日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経て「フリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。10月8日から14日まで、東ドイツ時代の現役蒸気機関車作品展「ハッセルブラド紀行/東ドイツの蒸気機関車」を「KAF GALLERY」(埼玉県川口市)にて開催予定。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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