赤羽線が敷設された北本通りの喧騒の中で発車待ちする27系統三ノ輪橋行きの都電。杉並線から改軌・転属したバスボディの2500型が充当されていた。ダンプカー仕様の「いすゞTX」が背後を通過している(撮影/諸河久:1965年1月24日)
赤羽線が敷設された北本通りの喧騒の中で発車待ちする27系統三ノ輪橋行きの都電。杉並線から改軌・転属したバスボディの2500型が充当されていた。ダンプカー仕様の「いすゞTX」が背後を通過している(撮影/諸河久:1965年1月24日)

 次のカットが1965年に撮影した赤羽終点の一コマだ。王子駅前方面から到着した都電が、三ノ輪橋行きの方向幕を掲示して発車待ちしている。かつて宿場として栄えた岩淵宿は赤羽線の南側(画面右奥)に位置する。画面左側には大満寺、正光寺、梅王寺などの古刹があり、中世から続く寺町を醸成していた。

 都電の背後に写っている北本通りは、わずか2車線しかなかった。川口や岩槻に向かう自動車の群れは、画面右端に位置する赤羽交差点を右折する訳だから、交通のネックになっていたことがお分かりになるだろう。前出の中目黒終点を交通の要衝と述べたが、その混雑度はとても赤羽には及ばない。乗降客の安全をはかって、停留所にはガードレールを併用した安全地帯が設置されていたのは当然のことだ。

 都電の右奥に国鉄(現JR)東北本線・赤羽駅に通じる旧岩淵宿があり、当時は多くの飲食店や商店が盛業中だった。

 旧王子電気軌道から都電に引継がれた路線は、その殆どが専用軌道だったことが幸いして、都電・荒川線として存続している。この赤羽線は全線が併用軌道だったことが仇となり、割を食う格好で1972年11月12日に廃止されてしまった。

旧赤羽終点付近の北本通りは、両側7車線に拡幅されていた。北本通りはこの赤羽交差点を右折して、新河岸川と荒川に架かる新荒川大橋渡り、川口市に向かっている(撮影/諸河久:2019年9月27日)
旧赤羽終点付近の北本通りは、両側7車線に拡幅されていた。北本通りはこの赤羽交差点を右折して、新河岸川と荒川に架かる新荒川大橋渡り、川口市に向かっている(撮影/諸河久:2019年9月27日)

 先日、現況写真の撮影で現地を訪れた。北本通りのボトルネックになっていた赤羽交差点は下り4車線(右折2車線)、上り3車線に拡幅されていた。中目黒と同様に旧景に写っていた民家は道路拡幅工事でセットバックされ、昔日の建物は皆無だった。

 画面左側には、1993年に開業した東京メトロ南北線・赤羽岩淵駅の乗降口がある。都電の廃止後、道路渋滞の影響を受けない地下鉄の利便性に支えられている赤羽地域の交通事情を知ることができた。

■西荒川終点にかつての面影なく

 西荒川を終点とする小松川線は城東電気軌道が敷設した路線で、1926年3月に錦糸堀~西荒川3600mが全通している。本来は荒川放水路(現・荒川)を渡河して、川向こうの東荒川を経て、一之江線の今井(後年今井橋に改称)まで直通する計画だった。

 1938年に城東電気軌道は東京地下鉄道の経営となり、1942年に陸上交通事業調整法により東京市に編入されて、都電路線の一部となった。戦後は都心の日比谷公園と西荒川10411mを結ぶ25系統として運行されていた。
 

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激変した「西荒川」終点