コダック・エクタクロームXで撮影した憧れの木造路面電車のファーストショット。渡辺通一丁目(撮影/諸河久:1968年3月16日)
コダック・エクタクロームXで撮影した憧れの木造路面電車のファーストショット。渡辺通一丁目(撮影/諸河久:1968年3月16日)

 鉄道写真家の諸河久さんが路面電車を撮影するようになったのは56年前の高校生の頃。この時代にカメラなどの大きな機材を背負って全国をめぐるようになった。およそ半世紀前の観光地や地方都市を走った路面電車と街並みは、東京とは異なる文化と土地柄が写し出されていて味わい深い。日光、京都、横浜、神戸、高知と続いた夏季特別編は今回が最後。九州の大手私鉄である西日本鉄道(以下、西鉄)福岡市内線の路面電車だ。

【クリスマスにわく福岡の街など、当時の貴重な車両が写る別カットはこちら(全5枚)】

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 夏が来ると思い出す路面電車の一コマがある。

 眩いほどのトップライトのライティング、電車の窓という窓のカーテンが下げられ、真夏の暑い大気を感じた。その中に、少し反り返った車体に連なる二段の屋根、短いホイルベースのブリルの台車がよく似合う古風な木造路面電車が写っていた。

 筆者が高校に入学して間もない頃、旧知の先輩から九州旅行の作品を見せていただいたときのことだ。被写体は西鉄福岡市内線の101系路面電車だと教えていただいた。当時の高校生には九州・福岡は遠隔の地であるが「この木造路面電車が健在のうちに撮影したい」という意欲が高揚した記憶がある。

■40余両の木造車が活躍

 写真が憧れの西鉄福岡市内線木造車と初見参の一コマだ。20系統箱崎行きに充当された101系を循環線の渡辺通一丁目停留所で撮影。フィルムは35mm判(ISO64)コダック・エクタクロームXで、曇天下の撮影にもかかわらず良好に発色してくれた。

循環線を天神方面に向かう7系統西新町行きの1001系連接車。柳橋~渡辺通一丁目(撮影/諸河久:1968年3月16日)
循環線を天神方面に向かう7系統西新町行きの1001系連接車。柳橋~渡辺通一丁目(撮影/諸河久:1968年3月16日)

 101系は戦後になって、四輪単車ばかりの運行だった福岡市内線の輸送力を増強する目的で、北九州線から56両が転入した。この111は九州電気軌道が1911年に新製した旧1系の一両で、川崎造船(現・川崎重工)の製造だった。

 大都市の路面電車は不燃化対策による木造車の淘汰が進捗しており、筆者が訪ねた1968年の時点で、40余両の木造車が活躍していたことは特筆に値しよう。

 別カットは同じ渡辺通一丁目の南東側にカメラを向けて7系統西新町行き1001系連接車を撮影した。この高性能連接車は、輸送力増強と木造ボギー車の置き換えのため1954年から15編成が就役している。定員は130(54)名(カッコは座席定員)で、製造所は川崎車輛(現・川崎重工)だった。

 福岡市内に路面電車が走ったのは1910年3月で、福博電気軌道の敷設した貫線(かんせん)・呉服町線だった。同時期に別会社の博多電気軌道が敷設した循環線・城南線・吉塚線・北筑線も開業している。後年社名が変わったものの、1934年に両社が合併するまで2社時代が続いた。1942年の国策合併で、北九州地区の鉄道路線も加えた西日本鉄道となった。

 1965年現在の総営業距離は25600mで、全線複線(貫線の一部区間が単線)。軌間は1435mm、電車線電圧は600Vを採用していた。

 この渡辺通一丁目から循環線を1200mほど北上すると、福岡の繁華街の中心地「天神」に着く。市内線の天神停留所の南西方に「西鉄・天神大牟田線」のターミナルである西鉄福岡(天神)駅がある。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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