六甲山系を遠望して楠公東門線を走る1系統板宿(いたやど)行き市電。神戸市電は全15系統のうち、1系統(板宿循環)を始めとして、八系統が循環系統だった。楠公前~大倉山(撮影/諸河久:1964年2月10日)
六甲山系を遠望して楠公東門線を走る1系統板宿(いたやど)行き市電。神戸市電は全15系統のうち、1系統(板宿循環)を始めとして、八系統が循環系統だった。楠公前~大倉山(撮影/諸河久:1964年2月10日)

■神戸市電は西の「単車天国」

 筆者が神戸市電を撮り始めた時点で、四輪単車の300・400型は74両在籍していた。これは総旅客車の31%にあたり、街角に立ってちょっと待っていれば、四輪単車がやってくる状況だった。神戸市電は横浜と並ぶ西の「単車天国」だった。
 
 神戸市電の四輪単車は、登場時から全車が低床構造、エアーブレーキ装備の優れモノだった。1920年代、アメリカの路面電車に「バーネイ・セフティー・カー」と呼ばれる軽量構造・ワンマン仕様の低床四輪単車があったが、神戸市電の単車は「アメリカンバーネイ」を彷彿とさせるモダンな風貌をしていた。
 
 楠公東門線を走る1系統板宿行き300型市電の別カットも見てほしい。背景には六甲山系が遠望できる。高床式木造四輪単車を鋼体化した300型は1931年に登場。旧車から引き継いだ軸距の長いマウンテンギブソンMG19台車を装着していた。

山手上沢線を石屋川に向かう7系統の市電。この406は401型唯一の残存車で、貴重な存在だった。背景が「兵庫県庁」で、右側が「兵庫県議会議事堂」の建物だ。下山手五丁目~下山手四丁目 (撮影/諸河久:1964年2月10日)
山手上沢線を石屋川に向かう7系統の市電。この406は401型唯一の残存車で、貴重な存在だった。背景が「兵庫県庁」で、右側が「兵庫県議会議事堂」の建物だ。下山手五丁目~下山手四丁目 (撮影/諸河久:1964年2月10日)

 もう一点は神戸の官庁街下山手通を走る7系統石屋川行き401型市電。これも低床式木造四輪単車を1933年に鋼体化した車両で、低床仕様のブリル21E台車を装着。神戸大空襲で10両中9両が失われ、唯一生き残った貴重な存在だった。

 神戸市営地下鉄の車両は、神戸市電から引き継いだグリーンのツートンカラーの装いで市民の足として活躍している。

 先人が昭和の時代に築いた「東洋一の神戸市電」のスピリッツは、令和になった現在も生き続けている。

■撮影:1968年4月2日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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