神戸市電が堅持した救命設備。手前がストライカー(排障器)で、その奥にフェンダー(救助網)が見える。ストライカーに障害物が当たり後退すると、フェンダーが線路面まで降下する。和田車庫(撮影/諸河久:1971年1月6日)
神戸市電が堅持した救命設備。手前がストライカー(排障器)で、その奥にフェンダー(救助網)が見える。ストライカーに障害物が当たり後退すると、フェンダーが線路面まで降下する。和田車庫(撮影/諸河久:1971年1月6日)

 1964年頃からモータリゼーションの荒波が押し寄せ、市電から客足が遠のいていった。ワンマンカーの導入など、経営合理化をはかるが事態は好転しなかった。1966年の税関線廃止から路線縮小が始まり、神戸の街から路面電車が消えたのは1971年3月だった。
 
■神戸市電が「東洋一」だったワケ

 筆者と神戸市電の出合いは1964年だった。当時、営業距離35526m/15運転系統/総旅客車234両を擁していた。前述の6大都市の中で、営業距離は6位、旅客車数では5位に甘んじていた。

 神戸市電が1935年当時、各地の路面電車に比較して「東洋一」と謳われた要因は、当局が「よりよい車両を乗客に提供するのが真のサービス」をコンセプトにして、車両の安全性、快適性、経済性において近代化を達成していたことだ。

 東洋一の栄誉に導いたのが、700型ロマンスカーの登場だ。700型は1935年に電気局工場で車体を新造。新たに採用したセピア系グリーンとグリーンのツートンカラー、屋根まで届くような大きな窓の軽快な外観に加え、座席には転換式クロスシートを採用した画期的な路面電車だった。「トラムガール」と愛称された女性車掌を採用したことも相乗して、地元の神戸っ子からは「日本一!」の喝采が揚がったが、レベルの高さは日本一を超越して「東洋一!」と謳われることになった。

 別カットは神戸の商業と金融の中心地、栄町(さかえまち)通を走る6系統兵庫駅行きの市電700型。転換クロスシートは戦時中にロングシート化されたが、スマートな外観は神戸市電の華だった。

栄町線を走る大阪市電から導入した100型市電。大阪型はストライカーのみの装備で、神戸市では短命に終わった。裁判所前~元町六丁目(撮影/諸河久:1964年8月4日)
栄町線を走る大阪市電から導入した100型市電。大阪型はストライカーのみの装備で、神戸市では短命に終わった。裁判所前~元町六丁目(撮影/諸河久:1964年8月4日)

 神戸市電が車両の安全性を重視していた証が救命設備だった。神戸市電式といわれるストライカー(排障器)とフェンダー(救助網)を終始維持していた。別カットをご覧いただきたい。画面の手前がストライカーで、これに障害物が当たって後退すると、後部のフェンダーがレール面まで下がり、車輪への巻き込みを防止する構造になっていた。

 戦前の路面車両は法令で救命設備である救助網の設置を義務付けられていた。戦後の復興期にこの規制が緩和され、排障器のみの装備でも認可されるようになった。六大都市では、東京・横浜・大阪がこれにあたる。これに対して、神戸は双方を装備し、京都は双方と救助網を装備、名古屋は救助網を装備していた。

 別カットが、元町付近で神戸牛の老舗「大井肉店」(1929年創業)を背景に撮影した一コマだ。写っているのは100型で、冒頭の200型とともに35両が大阪市電から導入された。これらは大阪型と呼ばれ、老朽化した300・400型の四輪単車を淘汰した。大阪型は車体構造の関係で、神戸式救助網を取り付けられなかったことが災いし、人身事故を招いてしまった。これが契機となって、1964年に転入してから僅か4年程の使用で退役した。

次のページ
単車天国だった神戸市電