「潤」の中華そばは760円。煮干が効いている(筆者撮影)
「潤」の中華そばは760円。煮干が効いている(筆者撮影)

「お客さん全員がニコニコしながらラーメンをすすっているのを見て、これは人を幸せにするいい商売だなと思ったんです。自分は人より体力はあるし、ラーメン屋にはなれるかもしれない、と考えました」(松本さん)

 子どものころから、叔父が営む食堂でよくラーメンを食べていた。家の近くには、「杭州飯店」「まつや食堂」などのラーメンの名店もあり、よく通っていたという。ラーメンの道を歩もうと、松本さんは修行のために新潟から大阪に向かった。

「何の当てもなかったのですが、心の拠り所として何となく“甲子園”があったんです。とにかく一人になりたかったし、リセットしたかったんです」(松本さん)

 19歳で大阪の中華料理店で働き始めた松本さん。しがらみのない土地で、一心不乱に料理の基礎を学んだ。5年間の修行を終え、24歳で新潟に戻り、叔父の食堂を手伝い始めた。

 食堂を手伝いながらも、独立開業の準備も怠らなかった。1993年には、自宅の玄関を改装して「酒麺亭 潤」をオープンする。27歳のときだった。選んだのは、地元・燕三条系の背脂煮干ラーメン。当時、東京にも大阪にもこういったラーメンはなく、他に類を見ないものだということはわかっていた。いつか全国にこの味を広めてやろうという一心で、ラーメンを作り続けた。

 好調に売り上げを伸ばし、新潟でお店を3店舗に広げた頃、松本さんにチャンスが訪れる。ラーメン評論家・石神秀幸氏と東武百貨店池袋店が共催する「諸国ラーメン探訪区」出店の誘いだった。2003年11月から1年間という限定出店だったが、千載一遇のチャンスだと、その期間本店を閉めて東武百貨店に張り付いた。これがとてつもない売り上げとなり、燕三条ラーメンの可能性が見えてきた。しかし、松本さんは当時をこう振り返る。

「自分で納得のいくラーメンができていなかったのに、売り上げだけはどんどん上がっていく。肝心の味ではなく、“燕三条ラーメン”“背脂煮干”といった情報だけが選ばれているのではないかという不安に駆られたんです」(松本さん)

 これを機に、もっと腕を磨いて全国を目指そうと思った松本さん。各所から殺到した出店依頼を断り続け、味のブラッシュアップを図ることに集中した。

 こうして05年、東京1号店になる「らーめん 潤」を蒲田にオープンした。周りに工場が多いなど、燕三条と同じ文化を持っていたことから迷わず蒲田の地を選んだが、初めはまったく売れなかったという。松本さんの想像以上に、誰も新潟ラーメンを知らなかったのだ。

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予想外の現実が…