秋晴れの青山通りを走る9系統渋谷駅前行きの都電。背景は赤坂御用地で、道路拡幅のための用地が準備されている。赤坂表町~青山一丁目(撮影/諸河久:1963年9月24日)
秋晴れの青山通りを走る9系統渋谷駅前行きの都電。背景は赤坂御用地で、道路拡幅のための用地が準備されている。赤坂表町~青山一丁目(撮影/諸河久:1963年9月24日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、現在の「青山一丁目」駅付近の青山通りを走る都電だ。

【現在の同じ場所は激変!? いまの青山通りの写真や当時の迂回工事の別カットはこちら!】

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 赤坂御用地や神宮外苑といった広大な緑に触れられる一帯。都心にいながら、不思議とゆったりとした時間が流れているような感覚に陥る。夜になれば車のヘッドライトが辺りを照らし、大人が楽しめるグルメな店でにぎわう。青山通り(国道246号線)は、いまやそんな街並みが続く。

 写真は、青山通り沿いにある「青山一丁目」駅付近の56年前の光景だ。当時、高校生だった筆者は、好天に恵まれた祭日に撮影に出かけ、青山一丁目界隈で赤坂見附方面からやって来る渋谷駅前行きの都電を狙った。

 そもそも青山通りに路面電車が走ったのは東京市街鉄道による青山線で、開通は1904年(三宅坂~青山四丁目)。新宿線、築地線などとともに東京市街鉄道のドル箱線の一つに数えられていた。市電最盛期の青山線には9系統(渋谷駅前~両国)と10系統(渋谷駅前~須田町)の二系統が運転されていた。両系統は始発の渋谷駅前を発車すると、青山通りを三宅坂まで重複して走り、9系統はここから右折して半蔵門線を日比谷方面に向かう。いっぽう、10系統は左折して半蔵門・番町線を経由して九段方面に向かっていた。
 
 都電になった戦後の改編で、9系統(渋谷駅前~浜町中ノ橋)10系統(渋谷駅前~須田町)と、青山車庫が担当する伝統の系統番号は不変だった。

拡幅された現在の青山通り(国道246号線)。背景の赤坂御用地と街路樹の緑が梅雨空に映える。画面中央に30階建ての「赤坂Kタワー」が見える。青山一丁目(撮影/諸河久:2019年7月13日)
拡幅された現在の青山通り(国道246号線)。背景の赤坂御用地と街路樹の緑が梅雨空に映える。画面中央に30階建ての「赤坂Kタワー」が見える。青山一丁目(撮影/諸河久:2019年7月13日)

■東京五輪絡みで路線廃止と迂回運転

 以前に連載で取り上げた「板張り道路の永田町付近」編の首都高速4号新宿線と三宅坂ジャンクション建設工事のネックになったのが都電青山線の軌道敷だった。

 1963年夏の都電車内吊に「赤坂見附立体交差ならびに高速道路4号線建設に関連しまして…」という書き出しで、10月1日(予定)から9・10両系統の青山一丁目~三宅坂/半蔵門~九段上の路線廃止と迂回運転のやむなきに至った事由が告示された。

 迂回経路は9系統が渋谷駅前~青山一丁目~六本木~溜池~虎ノ門~桜田門~日比谷~築地~浜町中ノ橋。10系統が渋谷駅前~青山一丁目~四谷見附~九段上~須田町であった。

 9系統を利用して高校に通学していた筆者は、この自動車交通最優先に忖度した迂回措置に怒りを覚えた。道路工事完了後は、利用客の利便を第一に考慮して、休止しておいた路線を復旧するのが筋だろう、と思ったからだ。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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