初夏の夕刻、21系統の都電で家路に着く人々。上野駅前には乗降客のための広い安全地帯が設置されていた(撮影/諸河久:1963年5月19日)
初夏の夕刻、21系統の都電で家路に着く人々。上野駅前には乗降客のための広い安全地帯が設置されていた(撮影/諸河久:1963年5月19日)

 別カットは上野駅前停留所のラッシュアワーだ。21系統の都電は「北千住」の方向幕を掲示しているが、北千住は通称で千住四丁目行きだ。撮影年の3月に営団地下鉄(現東京メトロ)日比谷線は北千住~東銀座が開通し、北千住方面への都電客は日比谷線に移行したと思っていたが、このような繁盛ぶりだった。画面右端の地下鉄乗り場は銀座線と日比谷線を連絡する地下通路の途中にあり、地下道には「都電乗り場」の案内板が掲示されて、乗換えの利便を図っていた。都電の背後に写る常陽銀行上野支店が、現存を視認できる唯一の建物だ。

 現況写真の真ん中に前述の常陽銀行の佇まいを見つけたときには嬉しくなった。左端の茶色いビルが東京メトロの本社ビルで、営団地下鉄時代の1987年から1989年にかけて竣工している。

■歩行者天国実施日に代行バス

 1967年12月の1系統廃止を皮切りに、上野駅前からは次々と都電の姿が消えて行った。

定点は高架道路と歩道橋に挟まれた自動車道路の真ん中に位置するため、撮影することは困難だった。常陽銀行の建物にかつての面影を視認できた(撮影/諸河久:2019年7月13日)
定点は高架道路と歩道橋に挟まれた自動車道路の真ん中に位置するため、撮影することは困難だった。常陽銀行の建物にかつての面影を視認できた(撮影/諸河久:2019年7月13日)

 1969年10月には21、30系統が廃止され、最後まで残ったのが、柳島車庫が担当する24系統だった。24系統の廃止は1972年11月だった。

 1970年8月2日に美濃部東京都知事の提唱で実施された「歩行者天国」は、銀座から中央通りを日本橋、神田、秋葉原、上野とつないだ。その距離から「東洋一長い」歩行者天国といわれた。

 前述の24系統は、この時点で中央通りの上野駅前~須田町を運行中であった。歩行者天国の実施によって都電も交通規制の対象となり、実施時間中24系統は上野駅前折り返し運転となった。乗客の利便をはかるため、上野駅前~須田町には「都電 24」の系統版を掲示した都バスが昭和通り経由で運行された。利用客には特別乗継券が発行された、という「都電代行バス」のエピソードが残っている。地下鉄が運行されるようになりすっかり影を潜めた都電。車道でも歩行者天国でも邪魔者扱いされていた寂しい記憶が残る。

■撮影:1967年9月17日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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