拡幅される前の目白通りを走る15系統高田馬場行きの都電。都電早稲田車庫の隣地には都バスも駐車していた。 早稲田車庫前(撮影/諸河久:1964年12月23日)
拡幅される前の目白通りを走る15系統高田馬場行きの都電。都電早稲田車庫の隣地には都バスも駐車していた。 早稲田車庫前(撮影/諸河久:1964年12月23日)

 戦後の1949年12月になって、面影橋の先から高田馬場駅前までの戸塚線約900mが開業することになり、都電の早稲田停留所と旧王電の早稲田停留所を接続する軌道が敷設された。戸塚線の開業以降は、早稲田界隈を往来する運転系統は15系統(高田馬場駅前~茅場町)、32系統(荒川書庫前~早稲田、39系統(早稲田~厩橋)の三系統となった。

 15系統と39系統は早稲田停留所に隣接する早稲田車庫の受け持ちで運行されていたが、1968年9月に両系統が廃止されて、残存した32系統のみの運行となった。1974年10月から32系統の存続がきまり、系統番号に替わって「荒川線」と掲示した都電が走り始めた。

■都道の建設で様変わりした早稲田界隈
 
 呼称が荒川線に変わり、ワンマン運転も始まった1978年になると、それまでは道路のなかった早稲田交差点と明治通りを結ぶ都道放射7号線(現・新目白通り/都道8号線)の道路工事が開始され、早稲田停留所周辺の環境が大きく様変わりすることとなった。

拡幅された現在の新目白通り。都電早稲田車庫の跡地は都営アパートになり、1階が都バスの早稲田自動車営業所だ。左隣には「リーガロイヤルホテル東京」の高層建築が威容を誇っている。(撮影/諸河久:2019年6月1日)
拡幅された現在の新目白通り。都電早稲田車庫の跡地は都営アパートになり、1階が都バスの早稲田自動車営業所だ。左隣には「リーガロイヤルホテル東京」の高層建築が威容を誇っている。(撮影/諸河久:2019年6月1日)

 この放射7号線の新道は、道路中央にセンターリザベーションされた都電荒川線が位置し、両脇に片側二車線の道路が配置される設計だった。現行の軌道敷が7号線の西行き車線用地と重複するため、軌道敷の北側に複線軌道を新設して路線を移設する工事が1980年に開始された。この軌道移設工事は1980年9月25日に完了し、専用軌道と木造家屋の醸し出す昭和の風情は霧散してしまった。

 現状写真をご覧になるとおわかりになると思うが、旧軌道は都電左側の新目白通り西行き車線の位置にあった。エアコン完備のスマートな都電の登場もさることながら、昔日の早稲田停留所界隈に満ちていた「昭和のイメージ」はすっかり払拭され、高層マンションが林立する無機質な街の姿がここにある。

■撮影:1963年6月30日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。

AERAオンライン限定記事

著者プロフィールを見る
諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

諸河久の記事一覧はこちら