かつて都電が走っていた外苑東通りの現在。新緑の季節はとにかく美しい(撮影/井上和典・AERA編集部)
かつて都電が走っていた外苑東通りの現在。新緑の季節はとにかく美しい(撮影/井上和典・AERA編集部)

■神宮外苑と東宮御所の緑の中を走った信濃町線

 ここから青山一丁目にかけた信濃町線は、右側に神宮外苑、左側に東宮御所の木々の緑に囲まれて、山手地区では屈指の森林浴を楽しめる路線であった。

 写真の後ろ側に位置する信濃町停留所には安全地帯がなく、中央線を下車して都電に乗換える人々は、「7系統・品川駅前行き」「33系統・浜松町一丁目行き」「10系統・渋谷駅前行き」と標記された立て札の前に行列して、都電が来るのを待っていた。

新国立競技場は工事の真っ只中。五輪シーズンには東京のランドマークになるだろう(撮影/井上和典・AERA編集部)
新国立競技場は工事の真っ只中。五輪シーズンには東京のランドマークになるだろう(撮影/井上和典・AERA編集部)

 信濃町駅の西側を南北に走る外苑東通りに信濃町線が敷設されたのは1906年で、鹽町(しおまち:後年、四谷鹽町、四谷三丁目に改称)~青山一丁目(後年、北青山一丁目に改称)約1800mの路線だった。開業当初、信濃町~権田原は少し西側に敷設した旧線で運転されていたが、翌1907年に直線で短絡する新線に移行した。この時点で中央線の暗渠(あんきょ)を跨線する専用橋が架設されたと推測される。

 外苑東通りは信濃町駅前で中央線を跨線すると、神宮外苑・絵画館方面に行く道を右に分岐しており、青山一丁目方面へは都電の軌道を横断しなければならなかった。したがって、写真に見られるように自動車渋滞が頻繁に発生し、交通のネックでもあった。

■近道する歩行者を戒める立て札

 この専用橋梁は土砂混じりのバラストの上に複線軌道が敷設されていた。敷石はなかったが、徒歩で渡るのは容易であった。橋の両端には「危険 通行禁止」の立て札が掲げられ、ここを近道する歩行者を戒めていた。

1963年10月から迂回運転の10系統の都電も専用橋を渡ることになった。背景中央左側には明治記念館から東宮御所に連なる木々の緑が続いている。信濃町~権田原(撮影/諸河久:1964年5月17日)
1963年10月から迂回運転の10系統の都電も専用橋を渡ることになった。背景中央左側には明治記念館から東宮御所に連なる木々の緑が続いている。信濃町~権田原(撮影/諸河久:1964年5月17日)

 10系統渋谷駅前行きの都電が写っている写真からは、専用橋と信濃町駅跨線通路橋の間には下を走る中央線の空間が見える。撮影した1964年の時点で、専用橋は独立した状態であったことがお分かりになるだろう。後年撮影の印刷物を観察すると、専用橋の左側に沿って約5m幅の道路が架橋されていた。信濃町方から一方通行の車道と、その左側には白線で歩道も確保されている。信濃町駅の改札内通路を通らずに、都電路線に沿った自由通路を増設して、歩行者の利便を図ったことが推察される。 

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五輪5年後に信濃町線廃止