左側のバスターミナルを横目で見ながら錦糸町駅前を走る25系統須田町行きの都電。錦糸堀~錦糸堀車庫前(撮影/諸河久:1964年8月22日)
左側のバスターミナルを横目で見ながら錦糸町駅前を走る25系統須田町行きの都電。錦糸堀~錦糸堀車庫前(撮影/諸河久:1964年8月22日)

2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は城東地区の商業地「錦糸町」を走る都電だ。

【55年が経過した今は都電から都バスの楽園に変わった!? 現在の写真はこちら】



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 駅や線路を挟んで、街の雰囲気ががらりと変わるのは決して珍しいことではない。東京駅の丸の内口と八重洲口、池袋駅の東口と西口など、異なる文化圏が街を形成する。

 城東地区で商業地の中心となる錦糸町もそうだ。JR総武本線が走る錦糸町駅を挟んで、昔ながらの歓楽街の雰囲気を残す南口側と、近年再開発が進む北口に分かれている。繁栄する街並みを築き上げたのは、都電の寄与するところが大きい。

 写真は錦糸堀車庫前を走る25系統須田町行きの都電。東西に走る京葉道路(国道14号線)に敷設された江東橋線には、この25系統と29・38系統が運行されていた。画面右奥が京葉道路と四つ目道路が直角に交差する錦糸町駅前交差点で、こちらには猿江線が敷設され、28・36系統が運行された。

■繁華街の真ん中にあった都電の車庫

 国鉄(現JR)錦糸町駅前には25・28・29・36・38の五系統と国鉄総武線の線路を挟んだ北側には16系統の計六系統の都電が運行されていた。その路線はお膝元の江東区と隣接する墨田区、そして江戸川区の一部を包括していた。ことに通勤・通学時には乗車を待つ人々が、錦糸町駅前や錦糸堀停留所に列をなし、次々に満員の都電が発車していく光景は「都電の楽園」とも言うべき盛況ぶりだった。

都バスが頻繁に発着する錦糸町駅前。「東京楽天地」は再開発で改装され、新たなランドマークとなった(撮影/諸河久:2019年4月7日)
都バスが頻繁に発着する錦糸町駅前。「東京楽天地」は再開発で改装され、新たなランドマークとなった(撮影/諸河久:2019年4月7日)

「地下鉄網の整備が遅れていたこの地域の都電を存続させよう」という機運もあったが、当初の計画通り1972年11月に全廃されてしまった。ことに、旧城東電気軌道を引き継いだ25・29・38系統の路線には、残存した荒川線に匹敵するほどの専用軌道区間があっただけに、経営の改善策も諮れず廃止の道を辿ったことが惜しまれる。

 写真左端に総武本線の築堤が見える。これをくぐるガードを抜け、その先の貨物線踏切を越すと、1948年のルート変更で終点が錦糸町駅前になった16系統が発着している。

 写真中央から右手前に展開する曲線は錦糸堀車庫への出入庫線だ。都電の車庫といえば、立地上やや不便な場所にあるのが常だが、錦糸堀車庫は駅前の繁華な歓楽街に堂々と設営されていた。この錦糸堀車庫は1923年8月30日に本所亀沢町車庫から分離移転したが、二日後に起きた関東大震災による火災で焼尽したというエピソードがある。都電廃止後の車庫の跡地は商業ビルに転換されて、現在は丸井錦糸町店が盛業中だ。

 国鉄錦糸町駅南口には、隣接した三つの都電停留所がある。写真左手前の錦糸堀車庫前と右端の奥と四つ目道路上の錦糸堀、画面左側のダンプトラックの後にあたる位置に錦糸町駅前が所在する。ちなみに猿江線の錦糸堀と錦糸町駅前はわずか86mの距離で、1958年に国鉄乗換え客の利便を図るため延伸された。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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